月は水銀

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 2026年04月02日(木)   ものかきさんに100のお題。 004.世界一 

 長い長い女王のドレスの裳裾をひいて控えの間から出てきた彼女に、わたしは瞬間、褒めたたえることも忘れて、みとれた。
 この、美しさをもたらす夢の守護聖である、わたしが。
 彼女はかわいらしい印象のつよい娘(こ)だったけれど、ゆっくりと扉を開けてしずしずと進み出てくる様子は、さながら美の結晶のようだった。わたしの施した初々しい薄い化粧の下の紅潮した頬、ぎゅっとむすんだくだものみたいなくちびる、きらめく、どんな宝石よりもいきいきとした緑の輝き……そして、うっすりと漂う、戸惑い。
(……。)
 それすら、美しさをそこなうものでなく、むしろ危ういバランスの陰影が、さらに何かを感じさせる予感に満ちて、繊細なレエス細工のふちどりのように彼女を飾っていたけれど、わたしをみあげたちいさな顔には、仕上げに肝心な、いつもの、わたしは元気! っていう魅力的な笑顔がない。
 いま、彼女にたたえられている美は、どれもとても奇麗な光にみちていて――そして酷く脆く、はかなくも、みえた。
 わたしはその、前をみながらもうつむけた顔をみてどうしたの、と腰に手をあてて覗きこむ。
「わたしのママは世界一。」
 彼女はぽつりと云った。
「え?」
「わたしの、口ぐせだったの。」  
 彼女はにこりと、うつむいたまま遠くをみて笑う。
「わたしの大好きなお菓子をつくってくれたとき、お洋服を縫ってくれたとき、お話をきかせてくれたときたくさんたくさんのときに、いっつも、わたし、そう云ってママに抱きついた。」
「……いまは口ぐせじゃないわけ?」
「口ぐせは変わんない。変わるのは……わたし。わたしなの。わたし、きょう、宇宙一になっちゃう。……世界も、包んじゃうの。わたしの世界一のママのいる世界からわたしはぽんと飛び出しちゃったの、ね。さっき、ほんのさっきそれに気がついて、わたし……わたし、」 
 わたしは黙って彼女を抱きしめた。
 せめていまだけでも、宇宙一の彼女を翼ごと、もっと大きな世界――わたしのこの腕――でくるみこんであげたかった。
 ちいさくて華奢な肩を、抱きしめて、包みこんで、ゆっくりとゆすりながら、わたしはささやく。
「だいじょうぶ……だいじょうぶだよ。」  
 声にならない声がわたしの胸のなかにこぼれおちる。ひとつひとつがわたしの胸を打って、こだまして、波を立てた。
 わたしはその波にゆらゆらと揺られながら、話す。
「ねえ、アンジェリーク。世界っていうのはね、ひとによってみんな違う。その時そのひとがいるところ、みているところを世界って云うんだよ。だから、あんたはどこからも飛び出しちゃいないし、何にも変わっちゃいない。世界が宇宙、なんていうとすごく大ごとみたいに聴こえるし、実際に大ごとじゃああるんだけど、良く考えればものごとは単純、あんたがひとつ大きくなっただけなんだ。だから、ね。あんたが宇宙一なら、あんたのママも宇宙一。」
「宇宙、一の……ママ……?」
「そう。あんたはただ、宇宙一のママを持つ宇宙一のアンジェリークになっただけなんだ。」
「わたし、宇宙一、ママも……宇宙、一。」
 わたしの胸にうずめていた顔をおずおずとあげて、彼女は信じられないように、つぶやく。
「そう。宇宙一のアンジェリークと宇宙一のアンジェリークのママ、パパ。」
 ゆっくりと呪文のようにささやくと、その、わたしのひとことひとことにまるで萎れた花が癒されるように、うなだれていた彼女の顔にだんだんと薔薇色の生気が戻ってきた。
「ね? 単純なことだろう。」
「うん……うん。」
 ほんとうはそんなに単純じゃないことを知っている。
 わたしも……きっと、彼女も。
 けど、ちょっとみかたを変えたらラクになれるってこと、あるだろう? 
 わたしはそうやって、彼女に息をつかせてあげたかった。
 彼女はそんなわたしの腕のなかで、わたしのつくりだした空気で、息を、した。
 なんて……愛おしいんだろう。
 わたしは彼女を抱く腕にほんのすこしだけ力を込める。
「ありがとう、オリヴィエ様。わたし、もうこわくない。」
 きゅっとわたしの背中を抱き返して、彼女はすこし恥ずかしそうに、けれどにっこりとまばゆく笑った。
「うん、そう、それだよ、アンジェリーク。とても奇麗だ。」
 思わず洩れた感嘆のことばに、彼女は声をあげて、笑う。
「オリヴィエ様は宇宙一の夢の守護聖様、ね。」
 わたしは猫のように眼を細めてふふふと笑い、彼女に手を伸ばした。
「さあ、行こう。みんなあんたのこと――宇宙一の、アンジェリークらしい女王さまを待ってるよ。」
「はい。」
 やわらかくゆだねられた手を取って彼女を導きながら、わたしはひっそりと頭のなかで、つぶやく。
 ねえ、〈宇宙一の夢の守護聖様〉じゃなくって、〈宇宙一のオリヴィエ〉って云ってくれないかな。
 宇宙一の、わたしの世界一のオリヴィエって。
 わたしは彼女をみつめる。
「オリヴィエ様?」
 不思議そうにみかえしてくる、彼女。
 ……でもそれは、あんたが泣かずに、ひとりで、宇宙一! って云えるようになるまで、口にするのは待っていることにするよ、とわたしはほほえみながら導く手をいったん離し、そしてただ想いをこめて、彼女の背中を光のあふれる謁見の間へと、押した。


お題提供:[ものかきさんに100のお題。](in A BLANK SPACE


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