月は水銀
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| 2026年03月18日(水) |
ものかきさんに100のお題。 002.温度 |
友情と愛情のさかいめって どこにあると思いますか? そう 彼女は真剣な顔で云った
ここ一週間ばかりの昼の空き時間、彼女はずっと公園にひとりでいた。 最初に、そんな彼女をみかけたのは、さきの月の曜日。 彼女がひとりでいる、ということ自体酷くめずらしいことであり、通りかかった俺はなんとなく気になって、みていた。 そこだけ、空気が違っていたのだ。俺の眼には、そうみえた。 彼女は本を読んでいた。ちいさな手にちいさな本。図書室や地の守護聖の書棚ではあまりみられない類いの大きさのそれに、彼女は一頁一頁まるで全身全霊を傾けるといった風情で読み耽っていた。俺は、そのあまりにも真剣で思いつめたような横顔に、莫迦げた話だと笑われるかもしれないが、彼女が心の天秤をぎりぎりまで傾けている――ほんとうにそんな感じにみえたのだ――本のなかに吸いこまれてしまうのじゃないかと心配で、毎日みにいかずにはいられなかった。 それでなくても、公園は俺の好きな息抜きの場所だったけれど、彼女に気づかれないようにその姿を認めては、聖殿に帰るのがちょっとした習慣のようになっていた。 そして次の月の曜日が巡ってきた。 彼女はもう本を読んでいなかった。膝のうえに置かれた本に、やはりちいさな手を置いてぼう、と宙をみつめている。夢の中という顔ではなくて――もっと厳しさをふくんだ、なんていうのだろう、上手くことばでは云えないけれど、〈わかってしまった〉というような――顔だった。俺はやはり気がかりで、彼女が座りこんでいる樹の枝に手をかけると、かがみこむようにして、後ろからそっと声をかけた。 「やあ、アンジェリーク。」 ふ、と彼女は俺をみあげる。 「読み終わったのかい?」 空気を乱さないよう、ごく柔らかく問うと、おどろいたような緑の大きな眸がさらにまるくみひらかれる。 「この一週間ずっとみていたんだ、本を読むきみを。」 通りがかりにねと云うと、彼女はすこしの間のあとくすりと笑った。 「……なんか、鬼気せまるって感じだったんじゃないですか、わたし。」 「……ああ。」 「心配してくださったんですね。」 彼女は、にこ、と――静かに、笑う。 俺は訊いてもいいかな、と彼女の横に座った。 彼女は応えるかわりに、またただ静かに笑ってみせた。 「どんな話だったんだい。」 「温度のはなし。」 「温度? 気温とか体温とか、そういうやつかい?」 怪訝そうに問いかえす俺に、彼女は立てた膝の上に顎を乗せてゆっくりと応える。 「ううん、そうじゃなくって。気持ちの温度の、はなし。」 「気持ち。」 「たとえば、〈好き〉って気持ちのこととか。」 「……それは恋の、こと?」 恋について――なんて、茶化したり隠れて話すのは苦手だ。面映ゆいものがまとわりついて、俺はいつも身動きが取れなくなる。知らない感情じゃない――たぶん――から、あまり触れたり、触れられたくないのだと思う。けど、真剣に話すのはきらいじゃない。滅多にないことだけれど。 「うん……ううん。恋だけじゃない。もっといろいろなの。」 「いろいろ、か。」 「わたしがそのひとを好きだからって、そのひともわたしを好きとはかぎらない。」 彼女は芝居の科白を暗誦するようにきっぱりと云う。 「わかりやすいのは、それ。いちばん高い、温度差のある気持ち。」 でもね……と彼女はうつむいた。 「わかりにくいのに、困ってるの。」 「たとえば?」 「たとえば……」 友情と愛情のさかいめ、と彼女は云った。 「友情と、愛情。」 「うん。それがごっちゃになることって、ありませんか?」 「……友愛ってこと?」 「ううん。もっとごっちゃなの。そのひとと運命をともにしたいなあって思うくらい。」 運命、と彼女はすこし異様なかがやきを眸にたたえて、云った。 「友情にもね、いっぱい種類があって。わたし、知らなかったんだけど。ただ好きっていうのとも違う。そのひととおんなじ高さでおんなじものみて、競って、支えあって、扶けあって、ときには、けんかもできて――けんかって、仲良くないとできないと思うから――でもさいごは抱きしめあって、それでずっと一緒に歩いていきたいの。」 そういうのって、と彼女は俺をみつめる。 「――友情?」 「……ある種の愛情、かな。」 「でも、ともだちなの。」 「友達に愛情はおかしい?」 「おかしくない。けど、ちょっとちがう。」 彼女はうつむき、そしてまた、きっと前を向いた。 「わたしがそのひとと運命をともにしたいって思ってても、そのひともわたしと運命をともにしたいとはかぎらない。」 彼女はふたたび芝居の科白を暗誦するように唱える。 「――歩いてく途がいっしょとは、かぎらない。」 そういう、温度差なの、と彼女はつぶやいた。そして、膝に金色の頭を置いたまま、俺をみあげる。 「ランディ様には、いない?」 俺は考える。 「いる――と思う。」 友情とも友愛とも違う、温度の違う気持ちでみつめてしまう相手。彼女の云っていることは、とりとめなく――けれど酷くすんなりと深い場所におさまるものだった。 俺のそれが、彼女とおなじ種類のものかどうかはわからなかったけれど、思いあたることは、ある。だから、そう応えた。 俺はおそらく、彼女が、何のことを――誰のことを云っているのか理解していたと思う。口には出さなかったけれど。 女王とは孤独な地位にある。 陛下を側近くみていると――たとえ拝謁できないとしてもその存在はいつも俺たちの傍にある――感じていると、時に歯がゆい程にそう思う。俺たちは、女王の孤独な闘いに力を貸すことは出来ても、孤独そのものを背負うことは出来ないのだ。 だが、女王には補佐官がいる。物理的にも精神的にもいちばん近しい、彼女のかつてのライバルが。いつも支える手を持って傍らにいる。 けれど、サクリアが発動すれば強制的にこの地へ召喚される守護聖とは違い、補佐官の地位は、選択できるものだ。補佐官となるか否かは、ただ本人の意志ひとつに委ねられている。強制でなく、家族や友人と別れ、故郷やその他諸々のすべてを捨てて女王とともに流れの違う時間に身を投じる――投じさせるということは、ちょっと親しい……ただ友人として〈好き〉なくらいの感情では、願うことも選ぶことも出来はしない。 たぶんそういうことなのだろう、彼女――アンジェリークを悩ませているのは。 「……どうしてるの?」 その温度差を。 彼女は口には出さず、眸で問うてくる。 「追いつこうとしている。」 途端、彼女はふわりと、胸を掴まれるようなせつなさを滲ませて、笑った。 「じゃあ、わたしと反対ね。追いつくっていうのは低いところから高いほうへってことだもん。温度は相手のほうが高いんだ。……わたしと、おんなじで。」 「ちょっと違う。」 「え?」 「そこに温度は関係ないんじゃないか?」 「どういう、こと?」 「温度だけだったら、高いほうから低いほうに追いつくってことも、あるんじゃないのかなってことさ。」 彼女は眼をみはる。 「俺の場合――使っている温度計すら違うんじゃないかと思うんだよ。おなじ温度計の上で追いかけているんじゃない。そこまでたどり着いていないんだ。だから、おなじ土俵に上がろうとしている。とどのつまり俺のほうが温度は高いんだろうと、思う。――必死だぜ、だからさ。」 俺は彼女に向かってことばとは裏腹に、にこりと笑ってみせた。そして云う。 「だけど、きみの場合は、もう、温度計はおなじなんじゃないか?」 すでに競っている、きみたちは。 眸がもうこれ以上はないというくらいみひらかれ、緑のまんまるい星のようになった。 「だから、きみは――きみたちは、高い低いは兎も角おなじ途を歩いているんじゃないか。」 俺をみつめていた彼女の、ぴんと張りつめていた表情が、ゆるやかに、融けた。 ――空気がおなじになった。 そして次に彼女は、くすりといつもとおなじ陽気さで笑った。 「そこからがまた、問題なんだけど。」 笑いながら、彼女はつづける。 「兎も角、のとこが。」 「――羨ましいよ。」 俺は、彼女にほほえみかける。 「いつか、行くけどね。絶対に。」 「友情と愛情のさかいめに?」 「ああ。」 境い目に、と俺は返し、仰向いて空をみあげた。 高い、空を。 彼女もみあげる。 たぶんお互いに、温度の違う相手の面影を思い浮かべながら。 「あ、ひこうきぐも……」 すうっと青い空に描かれたその境い目は、あちらとこちらの温度などまるで違えずに、奇麗に――とても自然に、わけているように、俺たちにはみえた。
お題提供:[ものかきさんに100のお題。](in A BLANK SPACE)
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