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| 2006年06月01日(木) 私が結婚することについて(前) |
| 困ったことに、私の心はまだ結婚できる準備が整っていないらしい。 困ったことに、そのことを確認せざるを得なかった。その作業は、ただただお互いを傷つける作業でしかなかったので、私も恋人もとても悲しいだけでした。 どんなに考えたり、悩んだり、泣いたり、怒ったり、イライラしてみたりしても、何にも変わらないし、何も始まらないし、何も起こらない。 半年近く、私と恋人はずっと話しをし続けて、結婚するかどうかずっと話し合いをしていた。 私は途中で、話し合いをすることを止めたくて、もう何もかもが嫌になった。 嫌になった理由は、結婚する話し合いをすること自体と、こんな状況を引き起こした自分自身に嫌気が差したからだ。結婚するのに、『話し合う』なんてそもそも可笑しいもの。“する”か“しない”かで、話し合いをするなんて馬鹿馬鹿しいもの。そして、話し合いをさせてしまった自分自身が嫌になったのだ。 なかなか身勝手な話だけど、馬鹿馬鹿しく嫌気が差したのだ。自分自身に。 正直、死にたいと思った。まあ、死にたいというのは語弊があるのかもしれないけど、生きるのが嫌になった。死にたいというのと同じことではあるけれど。このままこの状態であと何十年も自分は生きていくのか思うと、危ない話ではあるが生きることに無力感を感じた。 でも、結婚するかしないかと、どう話しをして良いかすらわからない状態で、私たちはいろんな言葉を重ねた中で、恋人は出来るだけ平静でいようと努めていた。 結婚するとはそもそも感情の問題だ。だけど、私たちが、たとえば妊娠したからという、結婚を急がなければいけない状況でないからこそ、私たちは感情でなく冷静にきちんと話し合いをしなくてはいけない、と恋人は考えているようだった。 感情で愛し合う人たちが、冷静に結婚しない話、結婚する話をするのは、なかなか堪えることだ。 たとえば、私の中には、私が二人居るとする。 ひとりの私は、結婚を夢見る普通の女性だ。いつか結婚して子どもを産もう。父や母に心配かけないようにちゃんと結婚して子どもを産もう、と思っている。むしろ、“そうしなければいけない”とすら思っている。 だけど、もう片方の私はとても怖いと思っているのだ。どんなことが幸せなことなのかよくわからない。一人の男性をずっと愛し続けられるのか、子どもを育てられるのか、人間を産み人間を育てることは、自分が思うよりずっとずっと大きな出来事で大切なことで大変なことなのだ。この私に出来るのか、誰かをずっと愛し続けることなんて、この私に出来るというのか、という自信のなさで溢れている。 そして、この二人の私は脳の中の別々の場所にいて、全く交わらない。だから、矛盾もせず共存しているのだ。私の中でこの二人は共存して、いろんなことに期待をして絶望している。 私は、自分が女性として生まれてきた以上、子どもを産まなければならないと思っている。産まなければ“ならない”だ。 たとえば、私が女の子を産んで、その子がまだ子どもを産む。生まれてきた子供が、また子供をつくりまたその子どもが子どもを産む。子供たちがそうやって遺伝子を引き継いで血を分けていくということは、素晴らしいことだと思う。だからこそ、私はその流れを私のところで止めてはいけないのだという、強迫観念にも似た思いがある。 子供を産まなければいけないという強迫観念がある。 だけど、その強迫観念の中に私の“男性観”がないのだ。私と一緒に子供を作る人がその観念の中に欠けているのだ。 難しい話だけれど、子供を産まなければいけないのに、結婚する相手の存在がうまく自分の中で思い浮かんでくれない。その人とどうやって距離を保って付き合っていき、暮らしていき生活して一緒に生きていくのか、よくわからない。 だけど、恋人は愛している。だけど、私と家庭を持ち子供を作ろうという恋人の心がわからない。 わからない。 わからないことは悲しい。 私は、自分が欠陥のある人間だと思える。大事なものが欠けている。その大事なものは人間として一番大事な部分で、少々欠点がある人間でも生きていけるだろうに、そのただ一点を欠いた私は、もう生きていく証がないのだ。私は明日も生きていけるという保証をどこかに落としたような気分になった。だから、生きることに無気力になるのだ。 |
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