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2004年12月06日(月)  亡くした瞬間
小さい頃、泣けば誰かがかまってくれると知っていた。
その通り、大人たちは泣く私にかまってくれた。そんなことを無意識に感じ取っていた嫌な子供だった。そして、加えて私は泣き虫だった。小さい頃から、そして多分いまもすぐに泣く種類の人間だと思う。

母は、私が小さい頃、夜遅くまで仕事で家をあけることがあった。
父とふたりきりで過ごす夜、母が居なくて淋しくて、お母さん早く帰ってきてと、じんわりと涙を流していた。父はそんな私をかまうこともしないで、ナイターばかり見ていた。私はどこで仕事をしているかもわからない母に向って、心の底から声を振り絞って泣き叫んでいた。祖父が私の尋常でない泣き声を聞きつけて、私を慰めに来た。もうご飯は食べたかい?おじいちゃんと一緒に遊ぼうか? それでも母を恋しがる私は泣き続け、そのうち祖父は私に目を向けることもない父を叱って、自室に戻っていく。祖母も祖父と同じように私を泣き止ませることが出来ず、父を叱って帰っていく。
やがて、母が帰宅して、あまりにも叫び泣きすぎて声も出なくなった私を見て、父に怒鳴った。どうして、ちゃんと面倒を見てくれないの。母は父を罵るけれど、父は困った顔しか出来ず、何も言わなかった。

けれど父は、私が泣くことを気にしなかったのではなく、私の涙を無視したわけではなく、父は私の扱いにただ困って、何も出来なかっただけなのだ。私は幼心にそれを知っていて、だからこそ母を恋しがるポーズで父に甘えたかったのだ。そして、母を恋しがって泣く私を、母に抱きしめてもらいたかった。家に帰ってきたら一番最初に、早く帰ってこられなくてごめんねと母に言って欲しかった。
けれど、その前に母は父を罵り、父はそれをただ黙って聞いていた。
私が小さい頃、うちはそんな家庭だった。

時々、そんな私の泣き声を聞いて、隣のおばあさんが来ることもあった。
隣の家まで聞こえるほどの私の泣き声に、祖父や祖母は困惑し、父は無言だった。
隣のおばあさんは私を連れて、隣の家に連れて行った。
うちと隣の家の境にある壁に取り付けられた小さな木の扉を開けたら、すぐそこがおばあさんの眠る小さな部屋がある。小さな縁側があって、夏の夜にはそこに腰掛けて、私とおばあさんは一緒にキャンディーをなめた。

そのおばあさんは、若い頃、小学校の先生をやっていたそうだ。校長先生にまでなった人で、祖父はよくそのおばあさんを立派な人だと言っていた。泣いているとキャンディーを飲み込んでつまってしまうよ。さあ、泣き止んで一緒にキャンディーをなめようねと言って、私は無理やり泣き止んで開けた口の中にキャンディーを放り込んでもらっていた。

おばあさんは、おばあさん独特の匂いがして、部屋は暗かったけれど、とても知的で上品なおばあさんだった記憶がある。小さい体だったけれど、おばあさんの前では私は行儀よくなれた。私が泣いても、このおばあさんは何にも惑わされず、そしてしつこく泣く私を行儀よくさせる特別な魔法を持っているような気がした。


小学校にあがったか、あがる前だったか、それはもう忘れてしまった。
私は、二階の部屋からうちの前を走る道を眺めていた。深夜だった。
その道は、昼間は車の往来が多く道幅も狭いので、私はぜったいに門の外へは出ないようにと、小さい頃から言い聞かされていた。うちの家の門は高くて頑丈だ。道を渡るときは祖父が見守って、私は友だちの家に遊びに行ったものだ。

深夜のその道は、しんと静まり返って人の気配もしなかった。
暗い闇の中を、私は怖いくせにそれでもじっとカーテンの隙間から、何かの訓練を自分に課すようにじっと見つめていた。
どこか遠くで、ブーンと車のエンジンの音が聞こえ、だんだんとライトの光が迫ったかと思うと、ぱっと闇に浮かんだ人の姿が見えた。強いライトに照らされたその人は、確かに隣の家のおばあさんで、浮かび上がったその人影を私はしっかり覚えている。次の瞬間、真っ暗な闇の中に、けれどしっかりそのおばあさんの小さな背中が見えた。地面に転がってうずくまっているその小さな背中が見えた。鈍いどすんという音と高いブレーキ音が、どちらが先に音がしたのかわからないけれど、その音が聞こえた瞬間、父も母も窓を開け外をうかがい、ぜったいに来ちゃダメよと私に言って、たくさんのタオルを持って外に飛び出た。

タオルはきっと血に染まり、小さなおばあさんの背中にはたくさんの近所の人たちが集まり、鋭い声や緊迫した空気が二階の部屋まで届き、外から母が早く寝なさいと私に向って叫んだ。それは見ちゃだめと言われているのと等しくて、その瞬間、そのおばあさんはたぶん死んだのだと思う。
車に撥ねられたおばあさんは、どれだけ痛かったろう。

私は、たぶん撥ねられた瞬間を見ていたのだと思う。
強い光の中で浮かび上がったその体と顔と、そして次の瞬間うずくまったその小さな体を、私は今でも覚えているけれど、その間にあった時間を私はまったく覚えていない。光る体とうずくまる体、そのあいだの時間、瞬間。

あの頃、死ぬことがわからなかった。理由も言わないでおばあさんは遠くに行ってしまったのだと思っていた。葬式の光景は覚えていない。けれど、いなくなってしまったことだけはわかっていた。うちとの境にあるあの小さな扉は、今は誰も使うこともなく、誰もくぐり抜けることもなく、だから今はもうない。


泣けば、誰かがかまってくれると知っていたけれど、おろおろすることもなく、困惑することもなく、叱ることもなく、私を泣き止ませたそのおばあさんはもういなくて、私はたぶんそのおばあさんが大好きだったのだと思う。私はそのおばあさんの消える瞬間を見て、そしてあの頃何を思っただろう。

車に撥ねられたとき、どれだけ痛かったことだろう。どれだけ悲しかったことだろう。
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