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| 2004年10月23日(土) 心配しています連絡ください |
| 地震がおさまったら、私はすぐに玄関のドアとベランダの窓がちゃんと開けられるかどうか、確認するようにしている。誰かに教わったわけでもなく、それが正しい地震後の対応かどうかもわからないけれど、何となく確認するようにしている。もしまた地震がきて、いざというときに慌てて非難したくても柱が歪んでしまってドアが開かなくなってしまっていたら、怖ろしいからだ。 ぐらぐらと揺れているときは1秒が長く感じられて、ハンガーにかけてあるスーツがゆらゆら揺れているのを見たり、蛍光灯のひもが揺れているのを見ていると、なんだか背筋がひんやりとする。ぐっと体を萎縮させて、これ以上揺れないようにとただ願って、静かになるのを待つ。 作りかけていたオムライスは、途中で慌てて火を消したので、フライパンの上で玉ねぎと肉を炒めていたままの状態だ。 こんなとき、誰かが一緒にいてくれることをとても頼もしく思う。恋人がテレビをつけて、私は玄関のドアを確かめる。 高校一年生のとき阪神大震災が起こった。私はそのときまだ夢の中にいた。酷く揺れる部屋が、夢なのか現実なのか区別がつかなくてぼんやりと目を覚ました。母が混乱した声で電話をかけてきて、言われるがままにテレビをつけると、どこか遠くの国で戦争が起こったのかと思い違えるほどの、焼け野原のような神戸の街が映っていた。 当時、とても好きだった先輩がいた。春休みを利用して、彼はボランティアに加わり神戸の復旧作業に出かけていった。神戸の街はまだ予断は許されないと聞いていたので、私は彼に行って欲しくはなかったけれど、それを聞き入れる人ではなかった。彼はまだ高校3年生だったのに、自分のことより他の誰かを心配できる人だった。 数日たって、彼が帰ってきたとき、私は彼の無事を確認できてとても安心した。 彼は、神戸で見たいろんなことを私に話してくれた。 ある日、炊き出しをしていた公園で、男の人と話しをしたという。 その人と奥さんは、彼らの子供を震災で亡くしたそうだ。どうしても、その男の子の体だけ柱に挟まれて引っ張りあげることが出来ず、近所であがった火の手はもう隣の家まで迫っているのに、いくら柱を持ち上げようと踏ん張っても、子供の体を引っ張っても、だめだったそうだ。子供は両親に早く逃げるように言って、両親は自分の子供が火に包まれていくのを見ることしか出来なかったそうだ。 その話しを聞いて、私は何も言えず、そしてこの彼が神戸に行って、見てきたことや聞いてきたことはずっと彼の心の中で生きつづけていくんだろうなと思った。大切な記憶として、ほかの記憶とは特別な存在として、残されていくような気がした。 そして、その話は、私の中でも生きつづける。 私は、地震にあうとその話しを思い出す。何も言えず、ただ彼の話しを聞いていたことを思い出す。子供を目の前で亡くした両親の姿を想像し、今どこでどうしているのだろうと馳せる。その両親も、そしてあのとき好きだった彼も、今どこでどうしているだろう。この地震であの男の子のことを思い出しているだろうか。 私がひとりでいるとき、もし地震が起こったら、私はきっと何も出来ず、ただ玄関のドアが開くかどうか確かめるような、そんなどうでもいい対処しか出来ないだろう。どこに避難すればいいのか、何を持って避難すればいいのか、ひとりではきっと何も思いつかないだろう。 今晩、恋人がいてくれたことを幸運に思う。 テレビの中で新潟のアナウンサーが、三度目の地震で揺れるカメラの前で、言葉をつまらせながらテーブルにしがみつきながら懸命に原稿を読んでいる。その姿を見かけた数秒後、東京も大きく長く揺れて、私はまた体を萎縮させて早く静まってくれるようにと、恋人にしがみついてただ待つことしか出来ない。 私と恋人は、ずっとNHKの安否情報の番組を見ていた。アナウンサーが、たくさんの人々の名前を読み上げて新潟にいる人へのメッセージを読み上げている。「心配しています連絡ください」と。いくつも羅列されている人の名前を見るたびに、出来るだけ多くの人に無事の連絡が届けばいいのに、と思った。 |
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