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2004年09月30日(木)  優しく揺れる電車で
午後5時に5分前。
東京駅に滑り込んだタクシーを降りて丸の内の改札をくぐったら、携帯を取り出して上司に電話をした。今から電車に乗ります。6時前にはそちらに行けると思います。上司は、低い声で答え自分は先に言っていると付け加えた。

ホームに止まっていた平塚行きの東海道線の電車は、半分くらいの座席が埋められていて私はドアから入ってすぐの2シートが向かい合ったボックス型の席に向った。窓側の進行方向を向いた席には若い男性が既に座っている。私は、彼の斜め向かいの通路側に座った。

今日最後の商談が終わってやっと今月の終わりを迎えることが出来た。当初、予定していた通りに仕事は進んだ。その間、予想外のトラブルは起きることもなく、ある程度の仕事の動きはキャッチして対応できたと思う。半歩でもいい、状況を早めに掴んでいればどれだけ仕事量が多くても、充分にこなせていける。毎月末、そうやって少しずつ自分の理想とする姿と、実際の仕事の結果が追いついてきているのを感じる。充分に満足しているわけではないけれど、自分を追い込んで自分に厳しくなるのも、モチベーションの保ち方としてはあまりいい方法ではないのでは、と最近思う。甘いだろうか。
明日からは10月になって、またいちからの仕事が始まる。営業目標を達成するために計上してきた数字は0になり、また10月の仕事を追いかけるのだ。
疲れてはいない。体は疲れているけれどそれ以外はまだ疲れてはいない。楽しいと思える仕事の仕方をしたい。これからもいろいろと模索したい。
首をまわして肩の緊張を解く。ほっとした気持ちから知らずにため息が漏れる。ぼんやりと電車の外を歩く人たちを眺め、車内のアナウンスに耳を傾けていた。

斜め前の席の男性に目をやる。30歳前後で髪の毛が柔らかそうだ。カーキのパンツに黒のジャケットを着ている。ニットのネクタイが似合っていて、そのラフなスーツ姿からは、私たち営業とはかけ離れた仕事をしているように見える。大きな目ときりりとした眉と、そして無表情に閉じられたその唇の形が好きだなと思った。じっとしたまま窓にかけた腕で頭を支え、外の人を眺めている。

ひとりの女性が彼の隣に腰掛けた。もうひとりの若い女性もやってきたので、私は窓際に詰めて彼女は私の隣に腰掛けた。たちまち車内は人に埋め尽くされていく。私の膝が微かにその彼の膝と触れたので、お互いに腰を引いてそれを避けた。ドアが音を立てて閉まり電車はゆっくりと東京駅をあとにする。
私も彼の真似をして、窓枠に肘をかけ腕で顎を支えて、夕暮れの街を眺める。

台風一過の今日は気持ちのよい晴れの日で、ずっと向こうの空はもうすでにオレンジ色に染まっている。細長く幅狭いビルばかりが並ぶ街も、やはりオレンジ色に染まりつつある。大きな通りにはそろそろネオンが光り始め、タクシーが渋滞している。止まった駅で開いたドアからは冷たい空気が入り込んでくる。すっかり秋になってしまって、すっかり夕暮れになってしまって、人々は会社や家に向って帰り始め、私はそんな風景を見て少し淋しい気持ちになったし、どこかホームシックに似た恋しさを感じた。赤く光る東京タワーがビルの切れ間に見えると、私は空のてっぺんを見上げた。空のてっぺんから地平線があるだろう方向に向って、黒、青、オレンジ色にグラデーションになっている。
目の前に座る彼も、同じように空を見上げ、東京タワーを眺め、街を見つめて、何かを考えているようでもありぼんやりとしているようでもある。電車の揺れにあわせてたまに触れる膝頭から体温が伝わってきそうな気がした。もし、体温から相手の考えることが伝わってきてこの彼の気持ちを感じることが出来たなら、私はきっとこの人に共感してあげたくなるだろうと思う。それくらい優しい夕焼けと何かを恋しく思う気持ちが募って、誰かに無闇に優しくしたくなる。

品川駅を過ぎたら、風景は低い屋根がびっしり並ぶ住宅街に変わる。電線が縦横無尽に伸び、ずっと向こうの空まで見やすくなった。まだ青さが残る空には筆で刷いたような短い飛行機雲が見える。小さな飛行機が空港に向って帰っているのだろうか。私も彼も風景が変わろうとも、相変わらず窓に体を預け、片腕で頬杖をついてじっとしたままだ。

これから横浜でミーティングをして今月の打ち上げをやったら、早めに家に帰ろう。早く帰って温かいスープを飲もう。熱いシャワーを浴びたらすぐにベッドにはいろう。運良く恋人がやってきたら、かたく抱き合って眠ろう。電車の中は、疲れきった人たちのため息や暗い顔で充満しているはずなのに、どこかゆっくりと時間が流れているようで、温かな光に溢れているようで、私はとても安心することが出来たし、甘い想像を掻き立てて少し眠ってしまいたい気にもなった。

私は文庫本を取り出し栞を抜き取って、通勤途中で読みかけていた本を読むことにした。
彼は、まだあの格好のままでじっと空と街を見つめている。
カタンコトンと電車は優しく揺れて、優しいオレンジ色が少しの時間だけ車内を染めた。

いくつかの駅を通り過ぎた後、電車は横浜駅に止まった。私は本をしまってカバンを閉じ顔を上げた。彼が黒めがちの視線をそっと私に向けて、優しく微笑んだ。無表情に結ばれていた唇は薄っすらと開き、私にこう言った。
さようなら、またどこかで。

たまたま向かい合って座った席で、私と同じ時間を共有した彼は、このまま電車に乗って一体どこへ行くのだろう。もしかしたら彼は、きっと伝わった私の体温から、私が彼のことを気にしていたことと秋の風景を見て感傷的になっていたことを知っていたのかもしれない。そして少しばかりの優しさをわけてくれた。
さようなら、またいつか。

私は彼にそう答えたけれど、このまま彼の前の席に座ったまま終点の駅まで行き、湘南の海にでも行ってしまいたいと、一瞬、逃避した。
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