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| 2004年05月19日(水) 電話番号を知る男 |
| ある日、知らない男が私の携帯に電話をかけてきた。 とても優しい声を出してその男は「私のことをよく知っている」と言った。「どうして?」とたずねると「僕は○○の友人なんだ」と言った。○○とは、そのときの私の恋人だった。「あなたが音楽大学に通っていると聞いている。いくつかクラシックのことについて教えて欲しい」とその男は言った。すぐに私はその男を警戒した。その男の名前を恋人の口から聞いたことはなかったし、そもそも私に何も言わず、自分の友人に私の携帯番号を教えるだろうか。男が私と連絡をとりたいのなら、前もって恋人は私にそのことを伝えるはずだと思った。 とても親しげに男は私に話しかける。言い換えれば馴れ馴れしくと言ってもいい。けれど、恋人の友人とあれば私もその男を無下に扱うことは出来ない。「アイツは幸せだな。可愛らしい恋人をもって」男は、私の写真を恋人から見せてもらったことがあると言った。恋人が私の写真を持ち歩いているとは知らなかった。「アイツとは学生の頃からの友だちでね」男は、そのときは既に社会人だった恋人の、学生だった頃の昔話を聞かせてくれた。私の知らない側面を持った恋人の話を聞くのは悪い気はしない。 しかし突然、その電話は相手の男の事情で切らなければいけなくなる。「突然電話してごめんね。また電話していいかな。アイツの学生時代の話の続きをしてあげるからさ」私は迷った。「ちなみに、僕がアイツのことを喋っているのは内緒だよ。知れたらどれだけ怒られるかわからないから」男は楽しそうに笑って電話を切った。 そのときの私と恋人は、仕事やバイトや大学が忙しく、会う暇がなかった。電話で話すことはあったけれど、その短い電話の中で私があの男を思い出して恋人にたずねることは出来なかった。そのときの私は、あの男のことをはっと思い出せるほど気にしていたわけではなかったし、一抹の疑問を残してもただそれだけの存在だったから。 数日後、あの男は予告どおり二度目の電話をかけてきた。その電話は三度四度と続いた。私は空の相槌をうち続けていた。男の話を聞かずに、男の言葉を聞いた。 この男の言うことは真実か。この男は何者か。一体なにが目的か。 恋人に打ち明けるべきか。けれど、もしこの男の言うことが事実で、もしこの男が本当に恋人の友人なら、私は恋人に疑われるのではないだろうか。ただクラシックについて訊ねられたことをきっかけに、どうして幾度もその男と電話をしているのだ、と。 恋人にたずねてみるきっかけを失ってしまったほど、男は私をとても親切に優しく扱った。受話器の向こうで。それがとても疑問だった。なぜそれほどまでに私に親切にするのだろうと。私は男に好意はなかったが興味はあった。男にとって何が目的かを知りたかった。 ある日、大学にいた私は男からの電話を受け取った。 今、仕事で大学のそばのビルに来ている。もうすぐ終わるから一緒に食事をしないかと言った。 もうすぐ夕方だった。 私はもうその頃には気づいていた。男の言っていることはすべて偽りだと判断していた。 数日間にもわたって、自分の友人の恋人に昔話を聞かせて面白がる人間がいるだろうか。男は、自分の話しの中に、私へのいくつかの質問を織り交ぜていた。内容は、私と恋人がうまくいっているのかどうか、私が恋人へ少しもの不満を抱いていないかどうか、私の中に自分の入り込む隙はあるのかどうか、というような類のもの。 数日ものあいだ、私がその男の電話に付き合った時点で、私は充分その男に付け込まれている。 そして、男はとても辻褄の合わないことを言っている。そのときの私は恋人のことを名前ではなく愛称で呼んでいた。その呼び方をするのは私と恋人がふたりでいるときにしか使わず、誰かそばに友人がいるときには一度も使ったことがなかった。これまでその愛称で恋人を呼んだことのある人もいない。その呼び名を知っているのは、私と恋人と私のごく親しい友人だけだ。もしかしたら恋人のごく親しい友人も知っていたかもしれないけれど。 私はその恋人の呼び名の矛盾にふと気がついた。 そもそも、電話をかけてきた最初の日から疑わしかったけれど、ただ疑わしいだけなら私はすぐ恋人に聞いただろう。ただ、その恋人の呼び名をその男が知っているとわかった時点で、とてもおかしなことが起こっているだろうということがわかった。 ファミリーレストランで私と男は、相対して座った。私はその間ずっと携帯電話を手に握り締めていた。男は恋人と同じぐらいの年齢でとても爽やかに笑いかける。おかしな風なところもないし見た目はごく普通の青年に見える。ただ一点、怪しいところをあげるのであれば不気味なほど爽やかに笑う口元だろうか。 そのときの私が、どうするつもりだったのかはわからない。 問い詰める気があったのかどうかも自分自身でさえわからなかった。けれど、どうにかしなければという気持ちがあっただろう。自分のせいでここまで事が大きくなったのであれば自分で何とかしなければいけないと思っただろう。 危険だと感じる神経が麻痺してしまったのかもしれない。軽率だと自分に忠告する信号はとうの前になくなっていた。食事をする気にもなれず、ただただ口の中が乾いて仕方なかった。男は電話と同じように喋り続ける。うるさいほど喋り続ける。 何がきっかけだったかはもう忘れてしまった。 私が口火を切ったのかもしれないし、男の中の何かがプツリと切れてしまったのかもしれなかった。店の中は充分に大勢の客がいたし、隣のテーブルまでの距離はとても短かった。大声をあげればどうにかなるのかもしれないと、私は携帯電話を握り締めていた。男は言った。 これまで話したことはぜんぶ嘘だ、と。あなたの恋人のことなんか知らない、と。ただあなたのことが知りたかっただけだ、と。あなたにとても興味を持った、と。 店の外でパトカーが走り去ったのを覚えている。どうしてこの店の前に止まって、この男を連れ去ってくれないのだろうと思った。穏やかに男は話し続ける。どうして男が私のことを知り得たのか。電話番号も私の名前も顔も恋人の名前も大学のことやアルバイトのことや私の友達のことを。 男はゆっくり煙草を吸う。私は煙草を吸う気になどなれなかった。 すべてを男から聞いた。それが本当にすべてだったかどうかは知らないけれど、もうどうでもよかった。早くここから出て行きたかった。彼の目的がわかったからこそ、その目的を私が否定しようとしてもこの男には通じないとわかった。突然に席を立つことも考えたけれど、男の穏やかさが逆に恐怖に思えた。目でウェイトレスを見つめてみたけれど視線の先を受け取ってはくれなかった。 男は、自分の話したかったことだけを話し終えたあと「煙草がきれた」と言った。打って変わって横柄な態度でウェイトレスを呼びつけ煙草を買って来るように言った。ウェイトレスはそれをやんわりと断り、店の外に自動販売機があることを伝えて去っていった。私は静かに息を吐いた。 男は舌打ちをしたあと、私ににっこりと笑いかけて「待っててね」と言い店の外に出て行った。男が店を出て行ったあと、3秒数えて私は席を立った。ウェイトレスが不可思議な顔で私を見たけれど、もうそのときは何にも構わずここから出て行くことだけを考えた。階段を飛んで駆け下り自動販売機のある場所からなるべく遠ざかって走った。並んでいたタクシー待ちの人間を無視して、私はタクシーの窓を叩いた。「どこでもいいから行ってください」と告げて目をつぶった。 とても滑稽だ。 その数日後、恋人は私を買い物に出かけようと誘った。シュレッダーを買いに出かけようと言った。 男は、私の捨てたゴミ袋から一通の書き損じの手紙を見つけた。それは私が書いたものだった。携帯電話の明細書を見つけて、私と友人で撮ったプリクラの写真を見つけた。アルバイト先からもらった給与明細を見つけて、大学の名前が入った五線ノートやコピーしすぎて捨てた楽譜を見つけた。 大学の進学とともに上京したてだった私は、地元に住む友人によく手紙を書いていた。恋人のことを話題にしていたかもしれない。書き損じの手紙は、本当は書き損じではなく一度書いてはみたものの「恋人の自慢話」のような手紙になってしまい、読み返すと自分で嫌気が差したので捨て、別の手紙を書いたというものだった。書き損じでは誰かが見ても内容がわからないだろうけれど、その手紙だけは誰が見ても細部までよくわかる、「私と恋人」について書かれてあった。 シュレッダーは結局買わなかった。理由はもう忘れてしまったけれど、多分私が外を歩くのが怖いと思ったからだと思う。男は私の住所を知り大学の場所を知り私の顔を知っているから。その後数日間は、恋人の家で眠り恋人の車で大学に行った。恋人は、最初こそ怒りはしたもののそのあとはとても優しかった。 都会に住むために必要な用心深さを、とても大きなリスクを払って学んだ。 とても滑稽だ。 |
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