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2004年05月05日(水)  カーテンの向こう側
父方の祖母は、もう数年前から福祉施設に入っている。
私がそんな祖母に会うのは、帰省したときだけで年に数度もない。

その日は朝から霧のような雨が降っていた。今年の連休はそれほどいい天気にも恵まれず、ずっと曇り空が続いていたけれど、今日になってとうとう雨が降り出した。強い風は昨日から吹いていて、今日、東京に帰る私と彼は、空を見上げながら飛行機が離陸できるのか不安に思っていた。台風が近づいてきているような強風だったから。

祖母のいる施設に、私たちは朝早くに到着した。
薄暗くじめじめした建物の中は、けして清潔な印象は与えずどこか饐えた匂いがしたし、建物の奥からは奇声が聞こえる。暗く長い廊下の突き当りにはアコーディオンカーテンがひいてあって、そこを開けると、何人もの老人がみな車椅子にのって廊下にあふれ出ていた。母が職員の女性に挨拶をして祖母の部屋をのぞきに行く。私と一緒にいた彼もそれについて歩く。
職員の男性が老人たちの車椅子を引っ張り、私たちが通れるように避けてくれた。それまでめいめいに話していた老人たちが一斉に黙り込み、私たちを見上げている。奇妙な連帯感を感じた。
祖母は、部屋にはおらず私たちは祖母を探して廊下中に溢れている老人たちの中を探した。
みな、一様に同じ服を着て、同じ車椅子に乗り、髪の毛は薄く白く、顔中には深い深い皺が刻まれている。ここには男性であること・女性であることの区別もなく、誰がお婆さんで誰がお爺さんなのか、見分けがつかなかった。同じ顔をして同じ服を着た人たち。私はその中で祖母を見つけられるのか、一瞬不安になった。

祖母は横に伸びた廊下の一番端っこに、ひとりぽつんと座っていた。
そこのソファーに腰掛けて雨の降る空を眺めていた。
私と母が駆け寄り、私は祖母の隣に腰掛けた。
祖母は、「どなたかしら?」と私に問う。「あいだよ、おばちゃん。」と答えると祖母は満足したように頷いて「まあ、大きくなったね」と言うとまた窓の外に顔を戻した。
祖母は、数年前から私の顔を忘れた。私の名前は覚えていてそれが自分の孫だということも覚えていても、私の顔は祖母にとっては初対面の人間に見えるのだ。

祖母はどうしてあの老人たちから離れて、こんな端っこでぽつりと一人で座っているのだろう。

祖母は会うたびに体が小さくなってしまっているように思える。そんな祖母をみるたびに、祖母が私を初対面の人間として扱うのと同じように、私もこれが本当の私の祖母の姿だったろうかと、疑問を持ってしまいそうになる。祖母の生きる機能は少しずつ失われてきている。祖母の体はますます小さくなる。わたしに窓の外を見上げてぽつりぽつりと話す祖母に、私はどんな風に振舞えばいいのかわからなくなってきた。
母が祖母の正面に立って見下ろすように祖母を見ている。「お母さん、ご飯はもう食べたの?」母は祖母の遠くなった耳のそばで大きな声をはりあげて話しかける。母は、祖母を見下ろしている。祖母は母を見上げてにっこりと笑いかける。まるで子供が母親に会えたときの嬉しそうな顔みたいだ。私はそんなふたりの姿に、どうしても我慢が出来なかった。せめて、母には祖母の隣に腰掛けて祖母と同じ視線で話して欲しい。

職員の人間は、老人たちを取り巻く澱んだ空気とは正反対に、溌剌とした明るさを常に失わない。老人と職員。その明るさがふたつの集団の溝を余計に深くしているように見える。職員たちの明るさは老人たちに届いているのだろうか。

祖母の車椅子を部屋の前まで押していく。
祖母はベッドに横になりじっと目を閉じた。数分して寝息が聞こえると私たちはその部屋をあとにした。


部屋を出るといくつもの車椅子に乗った老人が私たちを振り返った。
私の横にいた老婆がゆっくりと右手をあげる。私はそれをじっと見ていた。腕はゆっくりと中を彷徨ったあと私に伸ばされた。私に何かを乞うようなその手を、私は握ってあげるべきか笑いかけてあげるべきか迷った。宙をただ彷徨う手に私はなんと応えるべきだったのだろうか。

私たちは職員の女性に挨拶をして、アコーディオンカーテンの外側に向かった。あのカーテンがきっと外界とこちらを隔てているんだ。ひとりの老人が私たちのあとを追ってきた。「もう帰るの? 私も一緒に帰りたいんだけどねぇ。誰も迎えに来ないからねぇ。一緒に帰りたいんだけどねぇ。」そう言いながらアコーディオンカーテンの手前で立ち止まった。私は曖昧な笑みを浮かべて会釈をした。私はカーテンの外に出て、その老人はカーテンの外に出ることを躊躇っているようだった。


人間の細胞は毎日死んで再生する。
もしかしたら、このカーテンの向こうには死んだきり再生しない細胞が増殖しているのかもしれない。祖母は確実に何かを失いつつある。来年には私の存在すら忘れているのかもしれない。けれど、もしそうなったとしても私にはきっと悲しむ権利などないのかもしれない。だって、私はずっと祖母のそばにいて話し相手になることも出来ないのだから。たまに訪ねてきてはたまにしか顔を出さない、薄情な孫なのだから。

車の中に戻って、私は大きく長い溜息をついた。台風みたいな風が車を揺らす。
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