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2004年03月11日(木)  流れる血
病院の下りエスカレーターの左側には、老人がびっしりと整列して立っていた。私はその脇を歩いて外来にある自動販売機までジュースを買いに行こうとしていた。
今日は暖かい。膝丈のジャージで過ごしてもぜんぜん寒くない。もうすぐ春なんだな。
と、思っていると履いていたスリッパが突然エスカレーターにとられて、私は左足を動かせなくなってしまった。あ、と思った瞬間左足を前に進めようとすぐに身をかがめるけれど、どうにも体のバランスを保てなくなり、私は膝で階段を2、3段ほど滑り落ちた。手をついたところは足をとられているところよりも低い。状態は四つんばいになって腰を持ち上げている感じ。ここから下までまっさかさまに落ちてしまうかと思ったけれど、辛うじてそれは膝で食い止めた。横に立っていた老人が、「あらあらあら」と気の抜けた声を出して、「あら、大丈夫。エスカレーターを歩いてるからよ」なんて言う。
大丈夫もなにも左膝がすごく痛い。折り曲げたところから真っ直ぐに伸ばすことが出来ないし、それにこの狭いエスカレーターで座り込んでしまうとどうにも立ち上がりにくい。恥ずかしいと思うより痛い。本当に痛い。下まで到達するまでには立ち上がらないと、今度はあの下段の巻き込みに挟まれてしまう。ぎりぎりのところで身を縮めてやっとの思いで立ち上がると、左のすねが血まみれになっていた。
「あらあらあら」「まぁ!」「大丈夫かい」
という幾人もの老人達が私を取り囲んで悲鳴を上げたり気の抜けた声をあげている。
私は苦笑いと照れ笑いを繰り返しながら、踵を返して自分の病室に帰る。逃げるように。

25歳にもなって足から血を出しながら廊下を歩くと、そりゃ誰もが振り返るし誰もが立ち止まる。私は足を引きずってようやく帰ってきた。ナースステーションに知っている看護士を見つけると、「ねぇ、血が出ちゃった」と言って足を見せた。「やだぁ」「きゃぁ」「だ、大丈夫?!」と看護士さえも唸らせるほどの流血。足首まで行く筋も血の流れた跡が出来ている。

あなたは血の気の多い人かしらね、と笑いながら看護士が私の左すねを消毒している。
主治医がそばを通りかかって事情を聞くと、エスカレーターでつまずくなんて子供かよ、と笑う。けれどそれを看護士が嗜めて、からかってる場合じゃないですよ、あそこでまっさかさまに落ちていたら頭を打ってたかもしれないのに、と言った。だから、看護士さえも驚かせる怪我の程だったわけである。

血はまだ治まらず、消毒と滲んで今にも溢れそうになっている。左足を横から眺めてみると傷の部分が少しえぐれていている。傷はすねを猫に引っかかれたように7本の斜めの筋3本の小さな筋が出来ている。打ち身が酷くて歩くのもままならない。子供の頃はよく何もないところで派手に転んではよく膝を怪我していた。消毒なんて何百回としただろう。私の膝はその傷跡がまだ残っているものもある。それ以来、転んで出来た傷はとても生々しくて、ほら今また血が流れてきた。
病室に戻って興味深く足を眺める。えぐれた私の皮膚は、一体どこにいったんだろうって。

この傷は、私のものだ。
たとえば、遠い異次元の世界。
歯車がどこかで変わったとして、私という存在が別の次元でも生きていると考えよう。
たとえば、入院をすることなく仕事をしている私。
昔の恋人と結婚して海外で暮らしている私。
それとも、東京ではなくまったく他の場所に住んでいる私。
どの私も、きっと今ごろ膝から血を流しているだろう。
仕事をしていた私はきっと駅のエスカレーターで人の大勢いる前で転んでいたかもしれないし、結婚した私は、きっと海の向こうは明け方の時間だから寝ぼけた頭で部屋で転び、夫に介抱してもらっているかもしれない。どの場所にいてどんなことをしていたとしても、私という人間であればいまこの時間に転んで膝から血を流しているのではないかと想像した。

だから、その人に背負わされている運命や宿命からはどんな選択をして他の人生を選んだとしても逃れられないのかもしれない。だから、大丈夫。どんなに大きな決断が目の前に突きつけられて迷ったとしても、そんなに運命は大きく変わらない。どちらを選んだとしても根本的なことは何も変わらない。そう思えば今を焦って過ごすことはナンセンスに思えてくる。大丈夫、私は私という人生をロスせずちゃんと歩いているんだって。

海の向こうの暗い部屋で、消毒で足を拭きながら座り込んでいる私が見える気がする。
だから、大丈夫。海の向こうに住もうが入院してようが変わらず仕事をしていようが、どちらもそれなりに幸せだしそれなりに辛いこともある。

大丈夫、だからそんなに迷わなくてもきっと大丈夫。
そう思うとなぜだか少し眠れる気がした。
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