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2004年02月19日(木)  兄、帰る。
風呂に入りたい!

金曜の夜以来、風呂に入ってない!髪がしっとりしてきた。やばい。顔しか洗ってない、ここ数日。汚い!というわけで熱があるのは知っているけれど、いざシャワー!

湯気であたりはもやもやしている。あ、なんだか息苦しくなってきた。さ、酸素が。酸素が足りない。息苦しくて眠くなってきた。頭が締め付けられる。髪の毛を流さなきゃ。早く出よう、早く、はやく。
というわけで久々のシャワーを浴びたら、貧血になってしまいました。やっとの思いで泡を流し終えると、焼けそうなほどに体が熱くなって、雫が落ちるのも構わずベッドに倒れこんですやすや眠りたくなる。視界はもちろん真っ暗。シャワー浴びて貧血だなんて、いやー、恥ずかしい。素っ裸にバスタオルを巻いてベッドに潜り込む。

何分たったか。
玄関ががちゃりと開いて誰かが入ってきた。私はもぞもぞとベッドの中にすっぽりと体を隠す。
「ただいま。何してるの?」
あーん、帰ってきた!お兄ちゃんが出張から帰ってきた!この日をどれだけ待ち望んだか!これまでの日をどれだけ数えたか!ひとり風邪に耐え忍んで異母兄の帰る日を、なんど指折り数えたか!
「何してるのよ。そんなに髪の毛濡らしてさ」

おかえりぃ〜。

これこれあれそれ。うんぬんかんぬん。
兄は驚き、早く髪の毛を乾かせと慌て、早く服着ろ馬鹿たれと言い放ち、体温計を探し始めた。
「兄さん、体温計はここだよ」
体温計は、数日前から活躍しまくり私のベッドの脇に転がったままだ。
「よし!病院行くぞ!」
と、兄は意気揚々と声高々に勇ましく叫ぶけれど、
「兄さん、病院はすでに行ったんだ!見てよ、この風邪薬の山を!」
内服役と書かれた袋は、そこら辺に散らばっている。

数日間の出張に出ていた異母兄は、やまの土産を買ってきた。
数日間の風邪に苦しめられ続けた異母妹は、やまの風邪薬をもらってきた。

「わーい!」
と言って異母妹は、土産のやまをひとつずつひろげ、
「うそだろぉー」
と言って異母兄は、薬の説明書きにひとつずつ目を通す。


お粥。
念願のお粥!
兄ちゃん、お腹が減って仕方なかったんだよ、わたし!
作るのも億劫で、食べるのも億劫だったけど、やっぱり人に作ってもらったおかゆは最高だね!

兄は嘆く。もうぜったいにお前にはひとり暮らしをさせないぞ、と鼻の穴を広げて興奮し、どうしてお粥くらい作れないんだと、どうしてシャワーなんか浴びるんだと、どうして早く電話してこないんだと、兄は嘆きに嘆いて私の脇から体温計を取り出し、デジタル数字を確認してまた嘆く。
はぁー、しょうもない妹だ!と。



私はふと思う。
兄妹って、一体どんな関係なんだろうって。
普通の、兄妹ってどんな関係?
私たちは、血が完全に繋がっていない分、どこか普通の兄妹と違う雰囲気がするのは、思い込みすぎだろうか。私たちは、どこか異様に兄と妹という立場を役ぶっているような気がする。
兄は異常に私を気にかけ、だからこそ私は過度に甘えるような心配させるような素振りを見せる。その逆もありうる気がする。私が異常に兄に頼るからこそ、兄もそれに応えて過度に心配する。私たちは、お互いのためを思って“兄”と“妹”という役回りを演じ続ける。
私たちは、べったりと寄り添い、完全でないからこそ周りから見て「とても仲のよい兄妹」ということを演じ続けている。もちろん互いの中が悪いわけではないけれど、必要以上に寄り添ってしまうのは、また頼られて喜んでいる姿は、どこか私たちを、やはり不完全なもののように思わせてしまう。
友人の兄妹なら、もっと適度に距離感のある、大人であることの尊重や、一種の身内同士の気恥ずかしさを持ち合わせているような気がしてならない。なのに、私たちはあまり距離のないほど近い存在で、そしてそれは、例えば幼い頃を一緒に過ごせなかった分だけを埋め合わせなければいけないという無意味な義務に負われているような気がする。

私が思うのは、私たち兄妹は、すでに25歳と30歳という年齢であるにもかかわらず、お互いがお互いに見せる姿は、子供とどこも違わないということだ。私たちはまだ5歳や10歳のように、または10歳や15歳のように、お互いを子供の無邪気さで甘えて甘えられ、守って守られしているのだと、ただそれだけを懸命に何かを埋めるように、悲しいけれどそれが私たちの本音であり、本心なのではないだろうか。


私たちは、充分大人のだけれど、私たちはまだ子供のままでいたくって、子供の頃一緒に過ごせたら、きっと今はこんな風に寄り添うことをしなくてももっと確かな絆を感じられていたのに、と思う。
兄の作ったお粥は、どろどろ溶けすぎて米粒の形もなくなっていたけれど、けれどそんなものであっても、私にとっては涙がでてしまいそうなほど嬉しいもので、この人は私の唯一の兄だと思わせる。けれど、“兄”という私の言葉の響きは元来の“兄”という存在とは少し違った雰囲気がするのも事実だ。

あと、何年、こうして兄に甘えられるのだろうと思う。
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