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2004年01月27日(火)  30歳の私
中学生や高校生の頃、20歳という年齢は私にとって、とても精神的な落ち着きのある独立した立派なおとなだと思っていたけれど、成人式を迎えた当日の、私の姿に唖然とした記憶がある。唖然としたと同時に、こんなものかなという諦めも多少はあったかもしれない。
20歳の私は、想像上の20歳とはかけ離れていたけれど、時間に身を任せ続けていると、次は21歳になり、そして22歳になるり、年齢を重ねていくごとに、あのころ見た20歳の人間は、外見だけの成長は著しかったが、中身は15歳や18歳の人間とも変わらず、今の私と同じで紆余曲折しながら一歩を踏み歩いていたんだと身をもって知った。

人間は、劇的には変わらない。

20歳をリアルに体験したあとは、30歳。
もうじき25歳を迎える私は、さて、30までにあと残すところ5年。
長いようだけれど短いかもしれない。その長さは今後の自分次第だろう。

けれど、30歳の自分像が思い浮かばない。
周りには、たくさんの30代の人間がいる。友達、仕事仲間、仕事相手。どの人を見ても、実はいまの自分とどこも変わらないように思える。私と彼らに5歳という年齢差を感じさせないのは、彼らが若いのか私がオトナなのか、それとも私の目が表面的なものしか見ていないのか。それはわからない。けれど、30というゲートを感じることが出来ないなら、私は30になろうとも、31や32になろうとも、何の実感もなく生きていくのかもしれない。

若しくは、こう思う。
30歳以降の私を見出せないなら、私はきっと30歳で終わるんだろうなって。

おかしな発想ではないつもりだ。真剣にそう思うこともある。
30年生きればいいほうではないだろうか。決してこれまでの毎日に満足しているわけではないけれど、何の実感も持てず30になるくらいだったら、そこで終わってしまったほうがまだ幸せだなと思うだけだ。
30代の友達は、そんな私を笑う。30になってみればわかるって、20代と30代の壁は厚い。嫌でも30になったことを思い知る。今はまだ5年後の自分を想像できないだけで、28や29になればそのうち考えることも出来るよ、って。そうだろうか、本当にそうだろうか。私はのほほんと生きていないだろうか、ちゃんとその瞬間を跨ぐことが出来るだろうか。

彼らに越えられて、私は30の壁を越えられないかもしれない。
漠然とながら、そう思う。
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