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| 2004年01月10日(土) 終電を逃した人生 |
| 私は何を話すでもないのに、何をするわけでもないのに、それは禁じられているとわかっているのに、彼の部屋を訪れた。 突然と言ってもいいほどの恋人との別れは、私には信じがたく、昨日までどこも様子の変わったところはないのに、今日になると「別れよう」の一言であっさりと恋人関係の幕は閉じられ、彼の心は堅く閉ざされてしまった。何がどうなったのか、天地がひっくり返ったとしても、私にはこの現実を受け入れることは出来なかった。 君を嫌いになったわけではない。僕は僕自身が嫌いになったんだ。 彼の言葉すべては、何かの言い訳にしか聞こえず何かを隠しているようにしか聞こえず、私を責める言葉はひとつもなく、全てが僕自身の我侭であり、罪であり、このまま付き合いが続けばきっと君を傷つけてしまうからと言い、そして、“既に僕らは別れてしまっているんだ”と、私たちの終わりを勝手に事実と決め付け、私の言葉を受け入れる余地もなく、遮った。 僕は君が思っているほどの男ではない。こんな酷い男は早く忘れたほうがいい。 誰が、この言葉を聞き入れることが出来るだろうか。 せめて、他に好きな女性が出来たと言ってくれればいいのに。嘘でもいいから、そう言ってくれれば私は次のステップに進むことが出来るのに。なのに、彼はその一言をどうしても言わない。だから、私は色々と考えすぎてしまう。私に彼を思いやる心がかけていたのだろうか、彼を気づかないうちに傷つけてしまったのだろうか、彼を尊重できずにいたのではないだろうか、あの一言を、あの行為を、彼はずっと気にしていたのだろうか、私は女性として男性と付き合うことが出来ないのではないだろうか、自分が思っているほど、私は魅力もなく誰かに気にかけられることもなく、ただのつまらない女だったのではないだろうか。この一ヶ月間、それを思わずにいた日は、一日とてない。 驚いた顔をして、しかし彼は私を部屋に招きいれた。 なぜ来たんだと、彼は何度も私に尋ねる。僕らはもう恋人ではなくなったのに、なぜ君は僕に会おうとするんだと、詰問する。私は言葉が出ない。彼に言いたい言葉は何一つとして出ないのに、それでも私はここへ来てしまった意味を、自分でも考えて沈黙する。私の沈黙が彼を苛立たせる。 進まない彼の仕事。 現実を受け入れられない私。 苛立つ彼。 横たわる沈黙。 わかった。それじゃもういちどだけ説明するよ。僕らが別れた理由。もう一度だけ説明するから、だからもうわかってくれ。だからもう会いに来ないでくれ。 彼はそう言って、もう聞きすぎた、言い訳のような嘘のような夢のような言葉しか言わない。 これ以上付き合うと、君が傷ついてしまうから。あのころは楽しかったよ、君のこともちゃんと好きだった、別に他に好きな女性がいるわけでもないし、これといった理由はないけれど、僕はつまらない男だから、これ以上、君と付き合っても何もしてあげられないんだ、だから君を傷つけてしまう。君が思っているような男じゃないんだ。 けれど私は思う。真実はそれじゃない。そんな理由なら、私には覆せる。そんな理屈で納得できる人がいるだろうか。私が傷つくのをあなたが恐れているのなら、いま、充分すぎるほどあなたとの別れで私は傷ついている。未来のことをどうしてそんなに憂うの。未来はまだ訪れていないし、未来がどうなるかなんてわからない。あなたがつまらない男だとか、何もしてあげられないなんて、それはあなた自身が決め付けることではなく私が感じることなのに、それを勝手に決め付けないで。 彼は椅子に座りなおして、こう付け足した。 僕は、あるときから付き合っている恋人のことを好きじゃなくなってしまうんだ。 その証拠にセックスをしなくなるんだ。好きだと思えなくなるんだ。決して嫌いではないのに、好きだとは思えなくなるんだ。君と別れたのは、そう思い始めた頃だったから。この先付き合い続けると、君のことを不意に好きではなくなってしまうから、だから君を傷つけてしまうから、だから別れたんだ。 私は、彼の部屋を出て、終電に向かって走った。 そう、彼は愛情に関して一時の感情しか持てない人だった。それは長く続かず、何の理由も根拠もないのに、ふと恋人への自分の愛情に疑問を持ってしまうのだ。私はそれを知っていた。そして、私にもそういう経験を、そういう恋愛をしたことがあった。とても好きだったのに、とてもうまくいっていたのに、夜寝て朝目覚めると、恋人のことが好きではなくなっていた。男性として意識できなくなっていた。一緒にいて楽しいけれど異性の情はもてなくなっていた。小さな不安やすれ違いはあったけれど、けしてそれが好きではなくなる要因ではなかったのに、ある日突然、好きではなくなってしまう。そして、自分がどこか欠落した人間のように思えてしまい、責めてしまう。辛くなる。 彼と一番初めに出会ったとき、私は彼がそういう人だと知っていた。忘れかけていた彼の像が、彼の言葉によって思い返された。私は、そんな一時の感情の恋愛を繰り返すことは無かったが、彼はそんな恋愛を繰り返し今まで生きてきた。そして、私が至った思いは、今回の恋愛も、彼のつぎはぎのような恋愛歴の中のひとつにしか過ぎなかったんだと。パッチワークのようにつぎはぎされた恋愛たちは、短期間ではあったけれど、彼を愛し、彼を楽しませ、彼を見守ってきて、そして愛情は醒めて終わり、また新しい恋愛が始まっていく。彼の性質からすると、半年ほど続いたこの恋愛はどちらかと言えば長く続いたほうではなかっただろか。 駅に着くと、終電は5分前に出てしまったあとだった。 寒くて手の感覚がなくなって、耳が千切れてしまいそうだった。小一時間ほど私は駅の前に佇んでいた。つま先が痛みに悲鳴をあげていた頃には、もう、私は彼の言うことを受け入れていた。受け入れたら終わってしまうとわかっていたけれど、わかっているけど、でもどうしようもないことかもしれない。受け入れたらすべてお終いだ。私の信じていたものは嘘だということになってしまう。彼の言うことを受け入れると言うことは、自分で自分を裏切り傷つけるということになる。けれど、私に残された道は、彼を受け入れるということしか残されていない。 彼に電話をし、来た道を引き返した。彼は、「もううちに来ないって約束してくれたら、泊めてあげるよ。だってうちに来るほかないでしょ」そう言った。私は、彼がもっと私を罵ってくれたらいいのにと思った。嫌いだと汚いものでも見るような目で吐いてくれたらいいのにと思う。何も言わず、目も見ず私は彼の部屋にもう一度だけあがった。寒い夜だから、申し訳程度の暖かい肉まんと缶コーヒーを買ったけれど彼は口もつけずに、置いた。そう、暖かさが必要なのは、ずっと外にいた私のほうで、暖房の効いた部屋にいた彼には必要がなかった。黙ってベッドに潜り込み、背中を向け合って横になった。恋人同士であれば向かい合って暖めあって眠るのに。彼は泣きそうな困ったような笑顔を浮かべていた。私には、もう彼の気持ちがわかった。それが自分に都合のよい推測であっても、自分の経験から彼の思いを知ることが出来た。だから一秒でもここにいたくはなかったのに。ひとつの密室にこうして彼といるだけでもたえられなかった。息が止まりそうな思いがした。 嫌いになったわけではないけれど、好きじゃなくなったんだ。“嫌い”になったことと“好きじゃない”ということは、一致しないのかもしれないけれど、恋人との間での意味は根本的に繋がるのだ。 彼の寝息が聞こえてくる。私はもっと罵られたかった。そうしたら、もっとこの人から遠ざかる決心がつくのに。私は、今までにないほどの割り切れない思いを残しながら、この人を追いかけてしまっている。 眠りが深い性質の彼を揺すって起こした。「邪魔する気?」彼の声には棘がある。「明日、仕事なんだよ。いい加減にしてくれ」段々と彼の声が大きくなる。彼に嫌いと言われたかった。お前の顔なんか見たくないと言われたかった。やっぱり、罵られて別れたほうが、いくらか気分が落ち着いた。「嫌いだよ。もうやめてくれ」彼は唸るようにそう言った。 やっぱりここにこなければ良かった。どこかの店に入って始発の電車が来るまで時間を潰していればよかった。「嫌いだ」と言われて、自分の気持ちを整理することが出来そうだけれど、朝まで眠れない夜を、彼の寝息を聴きながら過ごすことは苦痛以外の何物でもなかった。自分が突然訪ねてきて、終電を逃してして泊まることになってしまった迷惑も顧みず、けれどどうしてももうここにはいられなかった。身勝手だと言われてもいい。「やっぱり帰る」といって起き上がると、「どうやって帰るの」と、彼も起き上がった。どうにかして帰るつもりだった。「そうやって、心配させるようなことをして、どうして君はそんなに僕に気にかけさせるの。君が家にたどり着くまで眠れないじゃないか。明日は仕事なのに、寝不足で仕事なんかできないよ」男の人にとっては、深夜に女性をひとりで帰すということは、それほど心配なことなんだろうか。もう別れてしまった彼女じゃないか。夜中にどうやって帰ろうと、びくびくしながら夜道を歩こうとも、彼には少しも関係がないことじゃないか。中途半端な優しさじゃないか。それがあなたには致命的なんだ。男として終電のない時間に女性を帰すことは、それほど格好がつかないことなんだろうか。明日の仕事に差し支えるっていっても、結局言っていることは自分中心なことじゃないか。私がどうやって帰ろうとも、あなたは眠っていればいいじゃないか。 彼が私の腕をとって、物凄い力で引っ張った。私はベッドに戻された。私の腕を掴んだまま彼は眠ろうとする。ここから一歩も動けないようにするかのように。私は、その彼の物凄い力が怖くなった。ぐっと引っ張られた腕が痛んだ。私には抵抗できない怖さが彼にはあるのかもしれない。 眠ることも出来ず、目を閉じたり開いたりしながら、私は始発の電車が来る時間を待った。うとうとしながら時間を確かめながらじっとしている。寝ぼけた彼が不意に腕を私の体に巻きつけてくる。抱きしめられて胸が苦しくなる。彼は一体どんな夢を見ながら私の体を引き寄せるんだろう。別れた彼女を抱きしめて一体何になるんだろう。 時計の針が4時半を指すと、私は彼に気づかれないようにそっと立ち上がって着替えた。彼の寝息が途切れないことをずっと願いながら。彼は目覚めたとき私がいなくて驚くだろうか。心配するだろうか。腹が立ったりするのだろうか。暗い部屋を手探りをしながら荷物を探して、もう一度彼の寝顔を覗き込んだ。暗くて何も見えない。足元に蹴りこんだ布団を彼の体にかけて、靴を履いた。彼の寝息が遠ざかる。彼は私が出て行ったことに気づいているのかもしれない。 いろんな理由があったのだろうけれど、彼の中でいろんな不満や不安や、私への違和感があったのだろうけれど、今はそんな理由はただの理屈にしか過ぎず、大事なことは「彼が私を好きではなくなった」ことだろう。それが事実だ。理屈は事実に劣り、決して事実を覆さない。そして、パッチワークのような恋愛しか出来ない彼を、私は同情するのだろうか。いや、しないだろう。そういう恋愛をする人も、現にいるのだから。こうした別れが来ることは目に見えていたのに、そんな彼を好きになってしまったあのときを、私はただただ自分の過ちとして据えていくのだろう。彼は私が思っているような人間ではないと言った。私が彼をどんな人間だと思っていたことを彼は知っているのだろう。そして、別れたいと彼が言った後、数通のメールをやり取りした中で、彼はこうも言った。彼にとっては、私が唯一の支えだったのにその支えを自分から取り払ってしまい馬鹿なことをしたと。この数ヶ月間彼が孤独にならないように私はずっと彼のそばにいた。私にはわからないが、彼にとって、私は唯一の心のよりどころだったのかもしれない。しかし、そこに恋愛感情が芽生え、これまでの恋愛と同様に、突然、愛情の醒めは訪れてしまった。彼にとっては私と一緒に過ごす必要がなくなり、それと同時に自分の孤独と向きあわなければならなくなった。それでも、私とよりを戻すことを拒んだ。孤独でもいいから、恋人の関係を解消したかったのだろう。 彼は、これからどうなっていくんだろう。いくつになってもこんな恋愛を繰り返していくのだろうか。10年後、20年後の彼は、どうなっているのだろうか。 数時間前に掴まれた腕が痛くて、彼の怖さを見た気がした。男の人は怖い。抵抗できず逃れることも近づくことも出来ない。強くて切れるような痛みを伴う彼の怖さを見た気がして、私は彼だけでなく男の人みんなが、怖い生き物に思えてきた。 男の人はみんな怖い。 |
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