2008年05月06日(火)
柱のきずはおととしの、背中のきずはおとといの


(本当は昨日(5/5)に合わせるべきタイトルだけど来年まで待てないのでね)(おじさま口調)(っていうかキミは日記のタイトルで何がしたいんだ)


[ナツキノート]

・お昼の民放生放送はリアルタイムで見ました。三人が出てきた瞬間「たいへんたいへん!受しかいない!」と(笑)。
 つうか真ん中のひとリラックスしすぎなんですけれどー、gdgdつうかぐにゃぐにゃしてたんですけどーしゃんとしてー!(笑)。いちいちキョロキョロにこにこしててかわいかった……っ!(結局はそこか)
 しかし「ベルばら外伝はどう違うのですか?」と聞かれて「なにもかも違います!歌も踊りも……」にはどうしようかと思いました(違う、そこじゃない!)その後司会の人のフォローでちゃんと説明になる説明に繋がってたけど。なんか民放でも存分にイジられ体質を披露してしまったのではないかと気が気じゃないんですが(笑)、とにかく色々面白かったです。

・先日シリーズ再放送していた樹里どう番組のナツキさん編を録画したら、チューナーの不調で音しか撮れていないという事故が発生しました(がっくり)。しかも何故か静止画でその前にやっていた涼さんの「それでも船がゆく」のジョニー画像がはりついたまま(結果涼さんを見ながら樹里さんとナツキさんの声だけが流れる摩訶不思議なコンテンツ(違)が)(ぎゃあ)。とりあえず音だけ聞きました(聞いたのか)。ところどころ覚えがあったので本放映時に流し見たのだと思います。で、話の中で「スキューバダイビングとかしたくない?」「実は水が苦手なんです」がまんま今月の歌劇のどっち選ぶコーナーのネタと被っていてちょっとびっくりしました(笑)。つうか「顔を水につけるのがダメ」て(震)。夏「顔を洗った後もこんな感じで……」樹「かわいいなぁ」……音声だけだったのが悔やまれます。ついでに歌劇の方にもツッコむとスキューバダイビングがスカイダイビングかを聞かれて「スカイダイビング、恐怖と戦いたい」みたいな回答に「このドMが!」と思ったのは私だけじゃないと信じたい。

・それで歌劇話なんですが、表紙開いてぎゃあとなったのはさておき、絵と文で「楽屋でキリン耳(ヘアバンド)つけて、ベースカラーイエローなナツキさんがまさしくキリン」は「顔も長くて」って本当は書きたかったんだろうなぁと思いました(書けるわけない)(笑)。という訳で今度からキリンを見たらナツキさんを思い出すと思います。じゃがりことか(ええ?)。ナツキリン(えええ?)



<ここで改ページ>


 はいじゃあマヒロンスキーの話をします、します、したいんだけれどちゃんとしゃべれる自信がないです。実は昨夜も二時半までテキストイジってぐるんぐるんしてました。だってそれぐらいのもの摂取してきたんだよムラで。しかもムラでは摂取するだけしてきたから、後からじわじわぐるんぐるんしております。うわああああ、明日から仕事なのに、なのに。

 でも私はこれをしたくて麻尋担になったんだというのは、誰に言われるでもなく自分で自覚しているので、とりあえずGWのフィナーレにやれるところまでやっておきます。

 と、その前にウオーミングアップ代わりにスカステメモ

[星組メモ:アンカレスカステメモ]

・千秋楽映像を見ました。カーテンコールが3回あったうちの1回目と3回目だけで、私の言っていた「みなさんがだいすきです!」の2回目がカットされていました。ちぇー、あれがよかったのに。幕が上がって、スタンディングオベーションだったのに更に感極まってでも泣くまいとはぁはぁ呼吸(笑)してて、でも何か言わなくちゃで言ったのが「みなさんがだいすきです」(ひらがな表記)で、そのまんま幕……それが、すごく、かわいかったのー!(はいはい)本編放映時にはカットされないことを祈ります。皆それ見て麻尋の事が好きになるといい。

・遅ればせながらナウオンを観ました。いやあ碧海りま君かわいいね!(そこか)いちいちいちいちリアクションがかわいいね!おねえさん大好きになりそうだわ(かわいそう)。麻尋の言う「ヴィロンスキーという人間を一番理解するのは自分でなくてはならない」という言葉が印象的でした。やっぱり私が好きにならざるをえないよなぁと(素)。人の話をいっしょうけんめい聞いている様が、なんだかひどくかわいかったです。


[星組メモ:「アンナ・カレーニナ」作品総括、など]

 前述通り、千秋楽にかけての3公演をみっしり観てきた訳ですが、なんとなく想像していた通り、公演ごとに、むしろ公演の一幕、二幕ごとに(主に麻尋から)受ける印象が違って感想がとっちらかっています。どこを基点に話をすればいいのか自分でもわからないのですが、とりあえず作品全体の感想からいってみます。

 実は「アンナ・カレーニナ」という作品はあんまり好きじゃありません。初演はビデオ(時代だなぁ)で見た限りなのですが、どうやっても私の感想は「カレーニンがかわいそう」で終わってしまうのです。確かに綺麗な舞台だし、ヴィロンスキーとアンナの激しい恋というのもわかるのですが、やっぱり最終的には「カレーニンがかわいそう」で主人公二人に感情移入ができない納得できない。なので観る前から思っていたのは、この「カレーニンがかわいそう」を覆してくれるようなものを麻尋ヴィロンスキーとせあらアンナが見せてくれるのかなぁ、というのがあったんです(はい、最初からうっとおしいですこのひと)

 で、そんな私に麻尋ヴィロンスキーとせあらアンナが見せてくれたのは「カレーニンがかわいそう」を越える激しい「愛」ではなくて、それすらも越えるような「魂の双生児」っぷりでした。この二人は本当はひとつのものだったんじゃないか、男女というより魂に近いところでひとつだった。だから(互いに自分自身だから)求め合わずにはいられないし、愛しすぎてしまったんじゃないかなと。
 という感想にどこかで思い当たると思ったらゆーひさんの「LAST PARTY」。スコットとゼルダの関係性に同じ事を言っていました。奇しくもケーコ先生の作品なのですが、その「魂の双生児」っぷりをケーコたんが彼らに求めたわけじゃないと思います。作品の主題的にもそこには男女の恋愛感情がみっしりと生まれるべきなんじゃないかと思うのですが、彼らの舞台人としての若さからか、私にはそれは見えなかったんです(これは現在の麻尋の男役恋愛スキルが低い事も関係しているかと)(後述)。けれどもそれを越えるような魂のレベルでの交感。恋こそわが命、というより命そのものがここで言う「恋」なのだと。彼らが語る「恋」という単語はそのまま命と置き換えてもいいぐらい、それぐらい狂おしくどうしようもなく互いを求め合っていた。それが痛いくらいにせつなくて。だから一度はカレーニンの元に戻りながら、再びヴィロンスキーを選んでしまったアンナにも、一度は離れる決心をしながら再びアンナを選んでしまったヴィロンスキーにも、私的にようやく納得できました。物語の中で彼らが非難される度に「だってしょうがないじゃないか、彼らは元々ひとつのものだったのだから」と思いっきり援護していた私。何よりも、そうやって求め合うヴィロンスキーとアンナは傷つけあっている。互いを求めることが互いを苦しめることとわかっていながら、血を流しながら求め合う彼らだったと。

 麻尋が破壊的な(笑)芝居をするのは想定内だったのですが、せあらも結構破壊的な芝居の質なのだと気づいてびっくりしました。破壊、っていうと言葉が悪いのですが、なんというか二人とも「すっぱーん!」って感じのイキオイで(笑)「俺/私の中に目覚めたもう一人の俺/私」を演じていた。それがまた今回私がすとん、と作品に納得できた要因かなと。
 ただ同じ「すっぱーん」って感じでも麻尋ヴィロンスキーの場合は、それまでどこへ向かっていいのかわからずに鬱屈としていた全てのものが「もう一人の俺」にすごいイキオイで向かっていった感じで、せあらアンナの場合は本当に突然に目覚めた「もう一人の私」という感じで。いずれもその「もうひとり」が目覚めるパワーが尋常じゃないという感じでした。いっそ目覚めるというより「生まれた」と言ったほうが正しいのかもしれません。そうやって生まれた「もうひとりの俺/私」はなんだか幼い子供に思えました。生まれたての赤ん坊だったんじゃないかなと。正にアンナの日記にあった「生まれたての赤ん坊が食べ物を求めるように愛をむさぼった」。だからあんなにも真っ直ぐに無垢にただ求め合って。主題歌で歌う「愛の旅人」という歌詞より、「迷い子のように」という歌詞のほうがぐっと来てしまった。二人が求め合う様が、どこか頼りなくて、けれども無邪気で、切なくて。
 けれどもそうして生まれた「もうひとりの俺/私」は物語の中で生き延びることはできなかった。生き延びることを許されなかった。彼らを許さなかったのが貴族社会の檻、という事なのかもしれません。ところで「もうひとりの俺/私」は二度死んでいると思います。アンナは己の死を目前にして、カレーニンに許しを請う事で「もうひとりの私」を死なせ、ヴィロンスキーは愛に奢った者の報いとして自らの自殺未遂で「もうひとりの俺」を死なせている。これがそれぞれの一度目の死。けれども互いにもう一度求め合うことで、「もうひとりの俺/私」が生まれて「しまった」。不可抗力な誕生。そしてアンナはアンナ自身の死と共に「もうひとりの私」を死なせ、ヴィロンスキーはアンナの死と共に「もうひとりの俺」が死んだ。彼らが互いにひとつだから、互いを失っては生きてはいけないから。これが二度目の死。
 誕生と死と。なんだかまたしてもむっさんの好きそうな展開に無理矢理持っていっているといわれそうですが(笑)、けれども私にはあの狂おしさやせつなさやいたいたしさ激しさは、「背徳の愛」ではなく、そうした命の叫びにしか見えなかったのです。

 ラストシーンのヴィロンスキーがキティに言う「消える命もあれば」は死んでしまったアンナだけではなく、死んでしまったヴィロンスキーの「もうひとりの俺」も意味しているのだと思います。それにぐっときました。そしてセルプホフスコイが「生きて戻ってこい」というのもものすごくきました。だって、もうその時のヴィロンスキー(もうひとりの俺)は死んでいる訳だから。

 そんな感じに終始いたいたしくて、ほんとこの物語救われない、つうか麻尋ヴィロンスキーが救われなくてないなあと思いながら3公演を観続けたのですが(がんばりすぎ)、千秋楽の時、ヴィロンスキーが最後にアンナの日記を抱きしめて、すうっと上を向いて少しだけ笑ったとき、「あ、もう一度生まれたんだな」と思いました。アンナが日記で言う「あなたの愛に生かされていた」。

 ヴィロンスキーの愛ゆえに「もうひとりのわたし」が生まれて、
 そして今アンナが残した愛ゆえに「もうひとりの俺」がみたび生まれた


 感想というか解釈というかつうかSSじゃん!とは自分でも思います。多分これ、本来の物語からもケーコたんの意図からもかなりずれているんじゃないかと。ただ、私にはこう見えたんです。何言っているんだろうと思ったら、この人かわいそうな人だと思ってください(ホント最近こうやってしゃべることに完全に自信がない)(それでも、今私が感じている事には間違いないから、喋るんだけどね……)。


 多分もうちょっと喋ります。個々の役者の話とか。
 お口直しにいつものその他メモを。というかその他メモ(コネタメモ)は、観劇から日が立つとどんどん抜けていく事に最近気づいたので。

[星組メモ:アンカレその他メモ]

・十碧れいや君を初めて認識したのですがKIMIでかいな!(素)。男役スキルはまだまだなんですが、丁寧な芝居で好印象。なんだかやたらあったかいセルプ(略)(略すな)でした。雰囲気的に天希かおりさんを思い出しました。
・しかしそれを上回るイキオイで碧海りま君のコスチャのあったかさときたら!彼が出てくると劇場中が皆味方になっている空気があって面白かったです(もちろん私も味方だ)。歌はもうちょっと、と思ったのですが芝居の歌が歌えているのですごくいいと思う。
・優香りこちゃんは第二の南海になれるんじゃないかと、うっすら思いました。
・あとほんとどうでもいいんですが「アンナ・カレーニナ」のキーワードに「終着駅」が出てくるのに今更気づいてぎゃふん、となりました。持っている方は年末の有明小冊子をご参照ください(笑)。



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