2006年11月10日(金)
この期に及んでも


 また心置きなくヨゴれる為に漂白しているのだと思ってください。


 無事、土日を迎えられそうです。
 突然ですが、この夏のしごとまつりの時に、とあるロムっ娘ちゃんがこんな風に励ましてくれました。

「でもむっさんはもう十分すぎるくらい頑張ってるのでこれ以上頑張らず、神様からご褒美が降ってくるのを待ってたらいいと思います」

 もうほんとに泣かされたんですが、その中でうっすらと「じゃあごほうびは東宝楽のチケットがいいでーす」なんて即物的な考えもしてましたが(大人って)(笑)。

 今週一週間は、ちょうど今回のプロジェクトの収束週でした。現時点での障害対応はここで終わり。だからきっちり終わらせて、きっちり次の仕事にむかっていこうと思っていました。でも障害対応なので、不可測な部分もまだまだ残っていました。何か起こったらどうしようという不安。でも不安になるよりも、何か起こってもただ対処していけばいい、仮にそれで週末が駄目になったとしても、それも受け止める準備をしておこうと。私は私の仕事をしようと。
 でもそんな心配を他所に、状況は小康状態になりました。定時帰りとかすごい久し振り。こういうタイミングでこういう状況になったのは、正に奇跡的というか。ご覧の通り、残業ない月がほとんどない仕事ぶりをしています。でも年に1回ぐらいは、こうやってプロジェクトの端境期でぽつんと時間が取れる。それが正にこの数日に当たってくれた。
 ああ、これがきっと神様が私にくれたご褒美だ。
 きっと神様は私にこの時間をくれたんだ。こうやって自分の今現在の気持ちにむかって自分の気持ちを語る時間をくれたんだ、と。
 割と真面目に、そう思っています。







 大マシンガン最終夜。そんな調子だったので、ここまでずっと無計画に行き当たりばったりで書いてきたのですが、今日だけは計画的に。これだけは最初から書こうと思っていたことを書きます。楽を見てからの方がいいかな、と思ったのですが、やっぱりこれは今言っておきたい



[大真当番日誌拡大版:大真に捧げるマシンガン略して大マシンガン(長!)]


 今日は今現在の大真みらんさん(ただいま上演中)の話をします。

 東宝でマイ初日を迎えたとき、素で「もはや何もいう事はない」と思ったんですね(まあ結局これだけしゃべっているんですが)。
 だってもうあの人が舞台の上で「光ってやがる、輝いてやがる」なんだから、もう、私のマシンガンとか全然いらないよね!と。
 言葉を失ったのは、大真みらんさんが最後に向かって「完了」しようとしているのがわかったから。「これが本当に最後」とばかりに、最後の力を振り絞って精一杯の大真みらんをみせてくれているから。
 「完了」というのは、おかしいかなぁ。でも正にそういう感じでした。そしてこれは「完璧」でも「完全」でもない、ただ今時点で「完了」しようとしている。
 タカラヅカは未完のものを愛でる世界だとは思います。でも、大真くんは「完了」しようとしている。

 でも何をもってタカラジェンヌの「完了」なんだろうなぁと思いました。
 トップスターになって退団すること?でもそれはほんの一握りの人にしか与えられないものです。
 本人の気持ちが「完了」したら?本人の技術が「完了」したら?(実際芸又芸の世界だから完了というより限界なのかもしれないけれど)、本人の人生の中で次に行くために宝塚というフェーズを「完了」させたら?
 何が「完了」なんだろうなぁ。
 タカラジェンヌは辞めるもの、人が死ぬと同じように自然の摂理として辞めるもの。それを知っている人を私は「タカラジェンヌ」なのだと思います。どうしてやめちゃうの?やめないで、でも辞める。それはタカラジェンヌだから。この思いはおかっちさんの退団時に強く強く思いました。あの人はタカラジェンヌだから辞める、ということを実によくわかっていた人だと思うので。その姿を美しいと思い拍手で見送ったのです。
 今、私が言っている「完了」、何をもって「完了」とさせるかは人それぞれだけれど、自分で完了する時を見極めて辞めていく。単に辞めるんじゃない、「完了」してから辞めていかなくちゃいけない。それはとても厳しく、しんどいことだと思いました。
 「完璧」でもなく「完全」でもなく、「完了」ということ。
 あそこは架空の園、有限の園。だからどこかでピリオドを打たなくてはならないのだから。


 ジェンヌが「完了」するように、実はファンも「完了」しなくてはならないんじゃないかな、と思うのです。普通の芸能界だと、応援していたひとがいつのまにかいなくなる、というのはよくあることです。けれどもタカラヅカはいつのまにかはいなくならない。ちゃんと卒業と言うイベントがある。これはタカラジェンヌ自身もそしてファンも「完了」する為の期間に他ならないと思うんです。タカラヅカは特殊な世界です。そしてそれを取り巻く私たちも特殊な世界にいる。だから「完了」させなくてはならない。力づくでも無理矢理でも、私たちはエンドロールを迎えなくてはならない。

 永遠なんてありえないのだから。

 けれども「完了」は終わりではなく、「完了」は喪失ではない。
 ひとつのピリオドなのです。
 だから想いはこれからも続いていくと思うのです。
 でも一度ここで「完了」させるのです。


 今回の大真くんの「完了」の中には、実は大真担としての私を「完了」させてくれている、も入ります。これには自分でもびっくりしました。自分の「完了」だから、私自身の事なんですが、それなのに大真くんがちゃんと私を「完了」させようとしてくれているなぁと、思うのです。
 伝わらないね。でもいいや。


 自分でもどうかと思うぐらい、落ち着いてこの週末を迎えました。
 退団発表から、たくさん揺れてたくさん泣いたけれど、けれども落ち着いています。それはこうやって「完了」を迎えているからなんだと、思っています。「完了」しようとする大真くん、「完了」させようとしてくれている大真くん……いいタカラジェンヌだ。


 この「完了」という言葉を思ったのが10月中、でも11月に入ってその舞台を観てから「完了というよりは完成」と思いました。「完成」はおこがましいかもしれないけれど、もしかしたら「なんて甘い見方をしているんだ」と言われるかもしれませんが、今現在舞台で輝いている大真みらんさんはもう私からみると何もいえない、非の打ち所のない人に見えるのです。わかっていますよー、それが「完璧」でも「完全」でもないことは。けれども確かに「大真みらん」は完成されようとしています。
 で、一昨日言った事から続くのですが、今までのいろんな大真くんのキャラクターが一気に収束している気がするという話。それはそのたくさんの大真くんたちを内包していた「大真みらん」が完成されたからこそじゃないかと思ったのです。六実さんが持っている大事大事の宝箱に入っている大真くん人形たち、それらが生まれたのは大真みらんさんの芝居心と、我々のイジりと、そして大真みらんさんが未完であるがゆえのゆらぎ、未熟であるが故のゆらめきから生まれたものでもあったと思うのです。それがいま「大真みらん」の中にぴたりと納まっている。小学三年生のやんちゃも、おじさまのエスコートテクも、スケコマシ魂もすべて今現在完成された「大真みらん」から生まれている、すべてそこに起因しているというか。
 成長したんだと思います。人間的にも、タカラジェンヌとしても、男役としても。
 それが今現在の「大真みらん」だと、胸をはって自慢したいです。
 だって今までありえなかったんですよ?あんなに余裕綽々で銀橋渡って二階席にも目線を投げて、客席を釣って、でもちょっといたずらっぽい顔したり、ふっと苦悩感を漂わせたり、それが「光ってやがる」訳ですよ、「輝いてやがる」訳ですよ。
 いい男役になった。その姿にもう言葉も出なく……ってむっさんJAROに訴えられますよ?(笑)


 観てくれましたか?
 あの人が私が大好きな人です。




 もはや言うこともない、未練もない。

 けれどもひとつだけ泣き言と繰言を言うのなら(その時点でひとつじゃないから)(笑)、やっぱり「お芝居する大真くん」を観たかったです。
 この間気付いてちょっと凹んだんですが、大真くん、最後にバウに出たのは2003年の「巌流」なんですよ。以降は全ツ・中劇場班となります。で、大真くんの今のポジションだと大劇場でガッツリお芝居する役はまわってきません(キッパリ言うな)(ベルばら役代わりも災いしている)。そして全ツ・中劇場班だと過去の再演だったり、海外ミュージカルの上演だったりして、大真くんの為に書かれた役ではないんですよね。もしバウに出ていたら、そういう役が与えられたんじゃないかなぁと思ったんです。
 もちろんその全ツ・中劇場・そして大劇場で与えられた役をめいっぱいやってきた大真くんです。過去の再演、他の人がやった役を実に大真みらんらしく調理してくれて、その度にこっちはガツガツ喰っていたわけですけど。あと全ツ・中劇場公演につれてかれるたびに、劇団に戦力として認められているのだと思って嬉しかったし、そこで与えられた場が、どれだけ大真くんを成長させたか。
 だからこれは贅沢な泣き言です。
 けれども私はお芝居する大真みらんが好きだ、あの人の芝居心が好きだ、ムラの王家であんなモブにすぎないのに、私を震えさせて唸らせたやくしゃ・大真みらんが大好きなのですよ。
 大真くんが今まで一番印象に残った役で、一人の人生を演じられたからとジェフをあげて、やり直すなら清羅をやりなおしたいと言っていました。
 そういうのを、今現在の大真みらんさんで観たかった。

 でもね、上で言っているように大真みらんさんは「完成」されたから、それに私はこの贅沢な泣き言をひっこめるしかないのです。確かにガッツリお芝居する大真くんは観られなかったけれど、私がここまで観てきた大真くんは、やっぱり「やくしゃ」大真みらんから生まれたものだから。あのうっとおしい小芝居も、歌に込める情感も、踊るときのしなやかさも、与えられた役を自分のものにする造詣力も、みんなみんな「やくしゃ・大真みらん」から生まれたものだから。
「彼はおどれるひとうたえるひとやくしゃのひと?」
 とかつての私が言いました。その答えは昔も今も「やくしゃ」です。


 でもそれより何より、あの人は「大真みらん」なんだなぁと、思うのです。



 計画通りのはずなのに、とっちらかってんなぁ。とりあえず大マシンガンこれにて終了ー。



 あとは鳥を仕込んで(これはもうやった)、最後の日にすごいうっとおしいポエムを書く予定です(ポエムて)。



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