2006年02月25日(土)
まだまだひょっとこだぁ!


 やさしいかんじのする血管リベンジで献血をしてきたんですが(いやリベンジとかそういうもんじゃないべ?)、今回もやはり細いねー、大丈夫かねーと。ところが今回もいいイキオイで放出できたようで、曰く「血管は細いけれど血管自体が丈夫で弾力があるから押し出す力が強い」との事。すぐに終わる献血センター側としても助かる患者とおほめのことばをいただきました(笑)。どうでもいいんですが、これまで生きてきて「細い」なんて言われたのはこの血管ぐらいかもしれない(笑)。

 で、星組さん観てきました。
 今日はちょっと自分的に色々発見があったので、書いておきます。後々に繋がるように(あとあと?)


[ベルサイユのばら大メモ:トウコオスカルの話]

 トウコオスカルは女でも男でもないなぁ……という文脈でいくと男である前に女であるまえにひとりの人間と続けたいところなのですが、そこはちょっと弱い。……なんというか「リアル愛の巡礼」(はい?)個人的にはオスカルという役柄にこの曲はあっていないと思うんです。愛を求めて彷徨ったんじゃなくて、愛してしまったが故に彷徨ったわけでしょう?と思っていたんですが、この曲がトウコオスカルには超ジャストフィット。あのひと、自分を愛してくれる人を求めて彷徨っていた(真顔)。まあ平たく言うとやました先輩の言っていた「性別は受」に繋がるかと思うんですが(つなげるな)(いやでも私の中ではすとんと落ちました)。
 ただ、どうしてもトウコオスカルからは政治の匂いがしない。愛を求めたオスカル像は見えても、時代の中で人として生きようとしていたオスカル像が見えてこないんですよね……「女性として生まれたならば」と羅列してそれに対してパパが「後悔しているか?」に対して「いいえ、私は軍神マルスの子です」と答えるあの場面が、どうもちぐはぐな気がしてならないんですよね。そこでオスカル像がぶれているというか。脚本の問題もあるんだけれど、トウコさんの持ち味も大きいなぁ。トウコさんがあそこで涙目でとうとうと「私が女だったら」と訴えると、どうしても「そうしたかったのに、なれなかった」という後悔にしか見えないんですよね……。バスティーユの場面のトウコオスカルに感動しつつも、どうもそこのオスカルにそれまでのオスカルが繋がってこない。いや、今回はそもそもベルばら名場面集だからつながらなくてもいいんですが(そこは脳内補完すればいいわけだし)、それを踏まえてもあのジャルジェパパに殴られる場面がなんかおかしいなぁと思う今日この頃なのでございます。


[ベルサイユのばら大メモ:気象庁の話]

 しぃアンドレが引き続き私の中でキテおります。本当に全ツの時にも思った通り「新しいアンドレ」だなぁと(色々な意味でね)。
 前回、今宵一夜を「それまでオスカルに同化していたアンドレが、初めて互いを個として認めた」といったのですが、もうちょっと言うなれば今宵一夜はアンドレが男になった場面なんだなぁと……いや、そういう意味じゃなくて!(笑)。今宵一夜前のアンドレはオスカルに寄り添い見守り大きく包みこみつつも、そこに男の感情を持ち出していないと思うんですよね。オスカルの幸せが俺の幸せ、オスカルが死ぬ時が俺の死ぬ時。君の思いはかなわないのだぞとジェローデルにツッコまれても、そこにはジェローデルが想像するような男の感情がないから、それすらも超越しているから、構わないのだと。今宵一夜前のアンドレは全然「悶々と」していないんだよね。身分違いについても(まあこれは今回は明示されていないけれど)、オスカルがフェルゼンを愛している事についても、悶々としていない。非毒殺系アンドレとでも言えばいいでしょうか?(はい?)
 で、そのアンドレがまさかの一発逆転で、オスカルと想いが通じる。「私の事を愛しているか?」と聞かれて「愛しているとも」と答えたときに、その顔がその言葉を久しぶりに口にした、って感じだったんですね。自分の恋愛感情すら超越していたアンドレは、そこでずっと封印していた言葉を言う。あの時もう二度と言わないと誓った言葉を(※あの時:5巻でオスカルを剥いて告白して謝った時)。その瞬間、アンドレとオスカルは男と女になった(……う、うわ)。しぃアンドレとトウコオスカルの今宵一夜がなまなましいのは、そういう過程を経ているからかなぁと思ったり。単なる告白しあって結ばれました、おしまい。じゃないんだよ?本当に結ばれる場面なんだよあそこはなぁ……。二人で絡み合っている(笑)ところで「その時アンドレの手のひらにオスカルの肩の震えが伝わり」「その震えを抑えるようにアンドレの手を掴むオスカル」ってな感じに楽々ハーレクイン変換されてしまって(観ながら)頭を抱えました(せんせー!むっさんがもらしています!)。ああ、しぃアンドレに「怖くないから」て言わせたい。でもそれこそスミレコードだよね……。
 私のことが好きかと問われて「好きだ」と声を絞り出すように言うしぃアンドレが好きです。「愛している」という言葉の封印を解く前の助走というか、その「好きか?」の中に男と女の意味を含めていいのか、とりあぐねているようで。いや、クルねぇ!(君だけだ)。


[ベルサイユのばら大メモ:ルイ16世の話]

 くみちょのルイ16世は本当に素晴らしいなぁと、全力でリスペクトしています。何がいいかって、言葉は悪いけれど「バカ殿」に徹底しているのがイイ。大劇場の映像を観た時に、夜の散歩の場面のあのはではでしいコートがすごい違和感だったんですね?だって原作どおりで行くなら「ご自分は質素なコート一枚で」なんだよ?あー、またおかしく倒錯しているんだなぁここは、と思っていたんです。が、東上して観たら、あの場面はあのコートで正解なんだと強く思いました。
 で、この夜の散歩の場面でアントワネットの事を「あれ」と呼ぶルイ16世。でもこの「あれ」って自分の妻、家内を呼ぶ「あれ」じゃなくて、本当に指示代名詞にすぎない「あれ」になっているのがすごいなぁと思いました。あるいは「あれ」と指示代名詞以上で呼ぶことができないルイ16世、「あれ」としか呼べない隔たり。多分、この夫婦は「陛下」「王妃」としか呼び合えないんじゃないかなぁと。国王夫妻ではあっても、夫婦ではないのかもしれない。
 それがチュイリュリー宮で国王は初めて(多分)「あれ」を「アントワネット」と呼ぶ。「アントワネット、ありがとう」と。なんだかそこにものすごくぐぐぐーっとキテしまったんですね。こうしてくつろぐのが初めて、その時ふたりは初めて夫婦となった。

 と、言いつつも実はこれは宝塚の歌舞伎・ベルばらにおける切り刻み製法によって生まれたものだなぁと思うのです。多分、これまでの宝塚のベルばら脚本アーカイブを探せば、チュイリュリー宮以前で、ルイ16世が王妃を「アントワネット」と呼んだ場面があったのかもしれない。そもそも植田翁とかがそういう「他人称」にこだわりをもってちゃんと構築しているとは信じがたいし(もしそうだったらそれはそれですごいけれどね)。故意か偶然かはさておいても(私の確認できている範囲では)、ルイ16世は妻を「あれ」と呼び「王妃」と呼ぶ。そして最後の最期で「アントワネット」とその名を呼ぶ。その事に気付かせてくれたくみちょはやっぱりすごいなぁと思うのです。ほんとグッときた。
 ところで「アントワネット」は、姓?名?いや私最初は姓だと思って、フェルゼンが名前を呼んでと言われて「マリー・アントワネット」と姓名で呼んじゃうのに「うわー、アントワネット的にはそれって萎え(笑)なんじゃね?」と思っていたんですが、「マリー・アントワネット」が名ならば、別に萎えはしないよね?そして「名前を呼んで」と願っていたアントワネットに、その夫であるルイ16世が最後の最後で名を呼んだなぁと思うと更にぐっときます。
(というかフェルゼンも船の逢引までは「マリー」も「アントワネット」も呼んでいないんだっけ?)(深みにはまりそうなんでこの辺で一旦閉めます)。

 というわけで、くみちょのルイ16世を引き続きリスペクトしていきたいと思います。


[ベルサイユのばら小メモ]

・涼さんの淑女が一週間で全然別物になっていました。迷いが無くなった。ようやく「ワタさん相手なら何をしても大丈夫!」と気付いた模様(笑)。すごいワタさん、涼さんですらその手のひらでのびのびと泳がせてしまうのだなぁ。というわけで、今日は涼淑女を堪能しました。キザる度にキメる度に「そう!そこ!そこなのよおおお!」とシャッターきりまくりました(笑)。いいね〜いいよ〜、その顔いいね〜……じゃ、脱いでみようか(何のコントだ)(六実さんの中の定番:カメラマンとモデルコント)
・薔薇タンもパワーアップしてました。み、みんな!まだ二週目だよ!さすが星組。
・どうして〜どうして〜エレナ様の動きはひとりコミックライクなんだろう(歌詞余り)。あの人絶対にコマ割してから動いていると思うんだよね(どんなんだ)。
・そんなエレナ様とマリーノが「おおプランタン」で「うふふ、ふふふ」と笑いあっているのがすごい破壊力。私にはあそこが「うふふ、昨夜はイモリの黒焼き焼いちゃった」「まあ、それであの人のハートはいただきね」って聞こえてくるんですが(それもどんなんだ)。
・大好きです(唐突に)。
・初見の時からツッコミ忘れていたんですが、涼麻ともさんの侍従長のヅラもまたすごい破壊力。でもあれは直ぐなれて、慣れると涼麻ともさんがすごくカッコいいことに気付く。あの佇まい、カッコいい。
・今日のタキちゃんのアドリブは「あら〜ん、いや〜ん、ばか〜ん、あらーん」でした。
・なんだかんだ言ってフルに満喫している私ですが、それでもあのメルシー伯の訪問場面はキツいです。というかあれはタカラヅカの舞台としてありえない。座ったままで延々と台詞劇。小劇場ならともかく大劇の作法からは全く外れていると思うのです。
・という訳で、今日は改善策を考えました。とにかくあの場面は動きが無いのが辛い。じゃあ、メルシー伯が訪ねてきた時に、フェルゼンが腹筋をしているっていうのはどうだろうか?(そういう動きでどうする?)いっその事あの場面、あのまま盆を回したらどうだろうか?(だからそういうい動きでどうする?)いっその事、フェルゼンの中のアン・ドゥ・トロワを実体化させて、戦わせたらどうだろうか?心の中で天使と悪魔が戦うみたいに。あなたの為の道を選んだフェルゼンの影1とと私の為の道を選んだフェルゼンの影2と二人のための道を選んだフェルゼンの影3のPRIDE王者決戦編……って考えなくちゃいけないぐらい、救済が必要な場面だとおもうんだけどなぁ。


[大真当番日誌]

 本日の宮廷大百場面の判定は「夫婦」でした(ええ?)。なんかすごく当然のごとく百花さんと踊っていた。「あなたは子供を産んでから、ますます綺麗になったようだね」、出産の為、一時社交界を離れていた妻と夫の久しぶりの舞踏会、そういう感じ(どういう感じだよ!)。じゃあなんで夫婦なのに踊り終わった後はバラバラになっちゃうの?と思われるでしょう。でもその説明は簡単です。公の場である舞踏会ですから、基本夫婦でいちゃいちゃしないと思うんですよね。社交界に出たならば、社交をしなければならない。妻との社交は家でするからいいんですよ!(笑)
 で、今日のロベスピエールは(その後のフェルゼンの挙動を見守っているところ)(ロベスピエール全然関係ないから)、なんというか「実はわかってる風」でした。王妃とフェルゼンの恋路を噂話や興味本位ではなく、ただ事実として知っている(一度ぐらいは二人の逢引を見たのかもしれない)(そしてそれをひとり胸におさめている)。別れを告げに来たフェルゼンに常に「それで君は、どうするというのだ?」単なる心配でも同情でもなく、ただそれを見届けようとしているような。
「今日のフェルゼン伯のお話、素敵でしたわね」帰りの馬車の中で妻が言う。しかし妻は王妃とフェルゼンの関係を知らない(ということにさせてください)。夫はふといつの日か見た小船の上の王妃とフェルゼンの事を話してやろうかと思った。確かに、背徳ではある。けれども背徳であるが故に哀しい二人。「どうなさいましたの?」「いや、なんでもないよ」と夫は笑う。そう、これは私の心に納めておくべきことだと。不思議そうに見上げる妻に優しく笑いかける夫。家に帰ろう、誰もが居場所を求めているのだから、そして私たちにはその居場所があるのだから。

 これがナパームスクエア名物「むっさん!SSするなら余所で!」です(笑)。
 (つうか君は本当にこう見えたのか?)(そんな会話が聞こえてきたのか?)(………………うん)。

 ところで(話題変換)。今日の衛兵隊士は熱かったです。去っていくブイエ将軍に「とっととどこかにいっちまえ!」みたいなすごい罵倒を浴びせていました(笑)。
 バスティーユストップモーションでの膝立て剣を構えている姿がすごいカッコいい。あれ、トレカして売るといいよね、となりの紫君もセットで(真顔)




 今日は近くの席が「会社の仲良しOL同士で初めてのタカラヅカ」だったようで、非常に素直な感想が聞こえてきました。それがうるさいってわけじゃなくて、本当に彼女達が感動してくれているのがわかったから、ちょっと嬉しかったんですね。で、終演後、近くにいた男性が連れの女性に「俺、アンドレが死ぬ場面で泣いちゃったよ」と言っているのを聞いて、それもちょっと嬉しかったんですね。タカラヅカのベルばらはアレでアレでアレなんですが、それでも視覚的に訴える力がある、人の感情を揺さぶる力もある(この私だって、弾頭台のとなみには毎回うっとさせられている)、色々思う事はありますが、そのベルばらが持つ「力」は紛れも無い事実だなぁと思いました。



 茶会報告とSSは後日に(え?)
 とりあえずアレでアレでアレなあのシールは冷蔵庫に貼ろうと思っています(子供か!)(笑)。



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