2005年10月03日(月)
『本気になる相手を間違えてはいませんか?』


 書ける時に書けるうちに書ける順に書いておきます。
 
[ベルサイユのばら]

 市川初日に客席で「これを韓国にもっていくのか」と真っ青になったのですが、その反面ここまで来るとああもうそういうもんだと思うしか、と思えてきました。
 シンディの作品は「植田歌舞伎」と揶揄されますが、今回はベルばらそのものが歌舞伎になったなぁと思いました。歌舞伎ってある程度基礎知識とか元ネタ知らないとわからない部分があるじゃないですか。あと一つの物語の一場面だけを上演するってあるじゃないですか。話の筋が荒唐無稽だったりするじゃないですか。まさに宝塚のベルばらはそうなっていた。あれだけの原作を持ちながら、伝統芸能化してしまったのはある意味すごいなぁと。だからまあ韓国にも「こういうものなんですよ」で、持っていくしかない。「こういうものなんです」と思ってもらうしかない。宝塚が「こんなもの」だけじゃないというのは宝塚が好きな私としての強い反論なんですが、でもそれが世間に浸透しないのは、実は韓国だろうが 日本だろうが変わらないよね?日本の人だって殆どの人が宝塚と言えば「こういうもの」と思っているのだから。……くやしいけれど。実はそれが宝塚がいつまでたってもメジャーエンタ−ティメントになりえない(と私は思う)理由だとも思うし。
 シンディのベルばらは完全にダメだとは思わない。いっこいっこの場面にはすごくいいものを持っている(ものもある)(笑)と思うし、原作のエピソードをダイナシに切り刻んではいるけれど、そこに入れている宝塚のベルばらとしてのエピソードとか解釈(例えばステファン人形への投影とか、つきつめればものすごくいい素材だと思う)も悪くない。けれどもそれを全部ダイナシに(見えるように)してしまっているよね。これだけ批判をうけながら尚も変らないのも、ある意味すごいなぁと。
 あきらめともあきれともつかないようで、でも実はそれが真理のような気がしてきた。

 もうこの際だから、ベルばらは常に名場面集の上演としてしまえばいい。ファン投票で名場面だけやるTCAスペシャルにしてしまえばいい。つうか組を超えた役替わりをしている時点でこれはTCAなんだよ(笑)。
 というわけで、名場面集にするなら私は最初から最後まで薔薇タンでリクエストします(ええ?)。男役は上級生から研一まで薔薇タン。曲が終わるともう次の部隊が大階段上に控えています。男役は全員薔薇タン。もちろん未沙のえるさんにも薔薇タン。割と本気です(娘役は?)(全員悶絶?)(それはちょっとイヤだな)(じゃあ娘役も薔薇タンで)(よみがえれソウル・オブ・喜多)。


[三者三様三叉路]

 フェルゼン編の味わい方がわかったような気がしています。いや、ラストの牢獄の盛り上がりは好きなのですが、それ以外のフェルゼン編の場面て好きじゃなかった。つうかフェルゼンが好きになれない、宝塚の主演男役(笑)がやる役としても、物語の主人公としても、まったく受けれいれられなかったんです。それが、今回はちょっとというか全然見方が変りました。その辺をまとめておきます。
 初見の時にふと「この物語は三人が大人になるまでの物語なのかなぁ」と思ったんですね。三人というのはフェルゼン・アントワネット。オスカルなんですが、この三人がなんだか子供に思えたんです。まあこの「大人」「子供」という言葉は適切じゃないかもしれないんですが、とにかくこの三人は他の登場人物とは異なる(主役(級)だからという意味ではなく)、ある意味違和感を覚えたんです。
 ところでフェルゼンの歌う「愛の三叉路」(今プログラム確認したら「アン・ドゥ・トロワ」というタイトルでした)は今回初出ですか?私は初めて聞いたのですが、これが今回のベルばらの全てだなぁと思っています。 三叉路で立ち止まっているのはフェルゼンのみならず、アントワネットもオスカルもそうだと思っています。アントワネットの三叉路には「子供のための道」とか「国のための(王妃としての務め)道」とかが入り、オスカルの場合は「王宮のための道」「国のための(民衆=国民のための)道」とかが入るんだと思います。で、三人が三人ともその三叉路を前に迷っている。違う国で同じ年に生を受けた三人が、三叉路で迷っている。その三叉路を自分でひとつ選んで進んでいったのがオスカル、フェルゼンに助けられて三叉路を選んで歩きはじめたのがアントワネット、そしてその三叉路に立ち止まったままなのがフェルゼン……いつもの事ながらどんどんわかりにくくなっていますが続けます。
 最初に私が感じた「大人になる」はその三叉路を選ぶという行為なんじゃないかと思いました。大人になると色々な経験や立場から、選択肢っておのずと増えてくると思うんです。そしてその中からひとつを選んで進む、それは立場上選ばざるを得ない場合もあれば、自らの確固たる意思である場合もある。何かを犠牲にして選ぶ場合もあれば、何かを手に入れるために選ぶ場合もある。それが成功するか失敗するかはわからないけれど、選んだことに対する功罪はすべて自分にふりかかかってくる。なんだろう、自分自身の人生に対して責任を持つとでも言えばいいのかなぁ……そういう行為を「大人」とするならば、三叉路で立ち止まっている迷っている三人は子供、あるいは迷い子なのかもしれない。三人以外はみんなその三叉路を選んで進んでいる人たちばかりなんですよね。フェルゼンとメルシー伯の場面が一番象徴的で、メルシー伯はフェルゼンに王妃様の事を本当に考えていないと罵られながら、王妃が王妃である為の道を頑なに主張するわけじゃないですか。それがメルシー伯が選んで進む道だから(そしてそのメルシー伯の前で道を選ぶ事に迷ってしまったフェルゼンは完全に負けたわけで)。アンドレもオスカルとの事に悩みつつも、「自分は死ぬまでオスカルを守る」と道ははっきりとしているから「大人」。プロバンス伯爵やブイエ将軍には「貴族の立場を(自分の利権を)守る」という道を進んでいて、ルイ16世には「錠前を開ける」という道を進んでいて(どういう道だよ!)、デュガゾンは「フェルゼンを監視する」という道を進んでいて、ヨルゲン陸軍大臣は「スウェーデンの名誉を守る」という道を進んでいて、その部下達は「ヨルゲン大臣の為なら俺たちがんばる!(大佐命!)」という道を進んでいて……なんだか話がずれてきたな(笑)。でもとにかく三人以外はそうした道(目的とか使命とか趣向とか生き様とか)を確固たる思いで進んでいるわけです。けれども三人はその道を選ぶ前段階にいる訳で。それを選ぶ過程が、もっと言うとその「ぶれ(迷い)」が固まっていく様子が物語というかドラマになるのかもしれないなぁ(逆を言えば主役(級)以外は固まっていないと話が成立しないというか)。
 「国の為」「王宮の為」と悩んでいたオスカルは、最終的に「国の為」の道を選んで進んでいって散っていった(描かれていないけれど)。
 アントワネットは最終的に「フランス王妃の務め」「母としての務め」を選んで進んで弾頭台の露と消えた。それが物語の「ドラマ」になっている。
 じゃあ主人公であるはずのフェルゼンは?というと最初に言ったように彼自身は自分が歩むべき道を選んではいないのだと思います。一度は王妃の為に身を引く=「ドゥ、あなたの為の道」を選んだのに、最後にまた三叉路に戻ってきてしまった。そして同じくそこにいたアントワネットが最期に三叉路を選び取るのに手を貸した。けれどもフェルゼンはその三叉路に立ち止まってしまった。もうどこにも行けなくなってしまっている。ラストシーンにフェルゼンが浮かべる笑みはアントワネットの人生を(彼女の希望どおり)満たす事のできた満足感であり、自分自身の人生の達成感ではない。ある意味「ドゥ、あなたの為の道」を選んだ事になるのだろうけれど、それがフェルゼンの選んだ(進んでいく)道ではないように思えたのです。きっとあの後フェルゼンは三叉路に立ち止まったままいつまでも「心の荒野」を抱えたままでいるんじゃないだろうか……。原作のラストシーンは、「王妃を失ってから民衆を憎むあまり冷たい独裁者となって民衆から恨まれて殺された」フェルゼンの死体の絵で終わっているんです。なんだかワタさんのフェルゼンを見ていたら、それがやたらと思い出されたのです。そういう寂莫感というか無情感をワタさんのフェルゼンから感じてしまったのです。
 玄宗皇帝の時も思ったのですが自分で選択・決定をしない主人公は、主人公として成立しないというかカッコ良くないんですよ。フェルゼンがカッコよくないのも正にそれ。自分で道を選んでいないから、だから共感し難い。けれどもつきつめて考えていくと、自分の道を選択するより他人に道を選択させる(自分が道を選ぶ事を放棄している)ってすごい事なんじゃないだろうか。そして間接的にではあるけれどオスカルがあこがれを捨てて自分の進むべき道を選んだのも、やっぱりフェルゼンが関わってくると思うので、三叉路から二人の女性を送り出したフェルゼン、という事になるのかもしれない。
 でもすごくわかり難い主人公像だと思います。主演漢役(正しい漢字表記だ)(笑)のワタさんには、もっとわかりやすい主人公というかヒーローを振ってやればいいのに、立て続けに辛抱役というか一歩間違えば宝塚のヒーローして全く成立しない役を振られている。けれどもそれが決してナシではなくて、ワタさんだからこその主人公になっている。作・演出サイドがワタさんの持つキャラクター(スケールの大きさとか)に甘えてるとも思うし、それをこなしているワタさんをすごいとも思います。
 フェルゼンはやっぱり好きじゃないし、感情移入も共感もできない。けれども解釈というかようやく納得ができた。すごいなと思うようになった。物語を面白いと感じた。……やっぱりそれはワタさんフェルゼン故だったんじゃないかなぁと。
 という訳で、今回のベルばらは面白かったです。相変わらずの俺的身勝手解釈ではありますが、すごく面白かったです。


[ソウル・オブ・ベルばら思い出したぞメモ]

・靴磨きの場面で、レークを「かわいいね!」というウッディーさんは一体何を指してかわいいと言っているのだという話になりました。レークさん自身?それとも着ている服?(失礼な)……多分「キュッ、キュッ、キュッ」の音がイルカの鳴き声に似ていて「かわいいね!」なんだよ(ええ?)(だってその証拠にあのキュッ、キュッを一緒に歌っているじゃないか!)(笑)。

・お芝居のとにゃみアントワネットの大熱演にうっかり泣かされたのですが、そのとにゃみアントワネットが、牢獄でしきりに自分の髪(白髪)を触っていた仕草が気になりました。私にはあれが「現実を自分自身に言い聞かせる為の」仕草に見えたのです。きっと白髪になった髪は昔と手触りが違うのだと思います。白髪は鏡を見なければ、見ないで済む。けれども今確かに自分は死を目前にした囚われのルイ16世の寡婦なのだと、自分に認識させるように、その手触りで白髪を、今の現実を思い起こさせる(ずぎゃん)
 フェルゼンの声がして「まさか」と現実を確かめるように髪に触れていたのが、すごく印象的に残りました。


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