| 2005年08月13日(土) | ||
| おしみても | ||
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[嶺恵斗さんに捧げるマシンガン] (立ち位置違うのはわかっているんですがやらせてください) (やっぱり言葉にすることが私には意味があるので) 嶺恵斗ファン100人に聞くとおそらく48人ぐらいは「初めて認識したのはアヌビス神です」と答えると思うのですがすみません今嘘つきました。 という訳でわたしも(も、はどこにもかからないから)はからずもあのアヌビス神が嶺恵斗さん初認識だったりします(でも名前だけ)(駄目じゃん)。とプレトークが済んだところで、私がおかっちさんを語るに欠かせない二人の良房の話をしたいと思います。 順序は前後しまして、おかっちさんがやった花のいそぎの良房、当時上手く言葉にできなかったのですが、あれは非常に興味深い役どころ、役造りでした。せっかくなのでちゃんと文章にしておきたいと思います。 で、以下は半分ぐらい私の恥話になるので話半分ぐらいに聞いてください。 いそぎの二幕冒頭の清海波の場面、あそこで雨で舞が中止になった時良房が言うじゃないですか「舞には自信があったんだ……」あれ、私「前には地震があったんだ」って聞こえていたんですね(空耳アワー)(恥ずかしい)、で私にはそれが平安時代の貴族社会での天変地異を畏れる気持ち、全てを手にした藤原の一門でもどうにもならない自然現象を畏れる気持ち、に見えたんです。もっというとあの頃のそういう天変地異を政略で陥れた人の怨念、とする風潮があったじゃないですか。あの良房にはそういうリアリティが見えたんです。まあこれは私の聞き間違いから発生したものなので脇に置いておくとしても、最後に篁と対峙する時にものすごい怯えてびびるじゃないですか?あれもそういう当時の平安貴族のリアリティというか、己の権力を過信しているからこそ、権力の及ばないものへの畏れ(この場合は篁の『力』)、その畏れの前には何もかも捨ててひれ伏してしまう弱さ、脆さ……すごい客席で唸ったんですよ。あの演技はすごくアリです。と言うのも、あの最後の怯える芝居を「最後だけヘタレになっちゃってー」みたいに笑い飛ばしているのを耳にした事があったんです。違う、あれはそういうものじゃないんだーと、その場でマシンがる訳にもいかず(そりゃそうだ)、でもそんな意見をあちこちで聞いたのでずっと反論したかったんです(変な保護意識)。確かにやりすぎかもしれないけれど、でもあれはああやってやりすぎたからこそ良かったわけで、あれは本当に私的にすごいリアルで実感があって、ひとりの権力者の悲哀を時代の感触と歴史のドラマすら感じさせて、本当にあの良房が良かったなぁと思っていたんです。という事を声を小さく叫んでおきます(大きく叫ばないのか)(いやだってそもそもは私の誤解に端を発しているわけだから)(でもその誤解分を取り除いても、私的にはやっぱりあの良房はアリでした)(はいはい)。 おかっちさんの演じた役で、一番印象的で、一番好きな役です。ああいうのをできるひとは中々いない(きっぱり)。 もうひとりの良房、として業平新公(東宝)の良房があるのですが、実はこれが名実ともに(アヌビス神は名だけ)(笑)「嶺恵斗」さんの初認識です。当時はまだ下級生までには目が行ってなかった頃なのですが、たまたまこの新公を見ていて、その時印象に残っているんですね。幕開き当初は「ああ〜やっぱり専科さんの役どころは難しいよなぁ(半笑)」な出来だったんですが、芝居が進むにつれておかっちさんなりの良房ができあがっていったというか。本役さんの貫禄には及ばないのですが、ちょっと小物感があって、それが涼さんの基経(腹に一物系)といいバランスになっていたんです。本当に観ている間に「お」と変っていたので、今でも印象に残っています(いま思えばいいすずおかだった)(その話は余所でしてください)。 とまあこんな感じに私の中でおかっちさんの「やくしゃ」な部分が印象に残っており、私の中でも「やくしゃ」判定だったのですが……その後知れば知るほどわからなくなったというのが正直なところです。本当にやりすぎなぐらいに含んだり小芝居ったり(レクエルドの支配人は今見てもかなり笑える)(笑うな)、中日の王家の時にも思ったけれど「見せる」事を意識していないような芝居の仕方だったり(でもそれはそれで心ぐわっとつかまれたんですが)。つうか嶺恵斗さんは「わからない」というか全てにおいてアンバランスな人だったんじゃないかなぁと。無防備にエロかったり、でも時折あざとかったり、やりすぎるぐらい悪役してしまったり、やりすぎるぐらい小芝居してしまったり、舞台に立っている事がただ楽しいと幸せオーラをふりまきつつも、でもただ立っているだけじゃないいい仕事も一杯してくれた、すごい癒してもくれたし、「おーい、大丈夫かー?」と思った事も多々あったし、あれだけ恵まれた体格を持ちながらもその使いかたすらもてあまし気味にアンバランス。よく私「おかっちブーム」と称して、極所的におかっちさんに心奪われる事が何度か定期的にあったのですが(心奪われる、て)、それもまたそんなアンバランスなゆらぎにまさにひっかかってしまったんじゃないかなぁと。 (余談ながら私がダンケシェーンを観にいったのはこのおかっちブームが最高潮=つまりはおかっちさんを観たかったからです。今思うと本当行ってよかった) 退団が発表になって、あの人が本当にいなくなっちゃうことが信じられなくて、とりあえず悲しいから萌えに走って(走るな)、ここまで来たわけですが、最後の最後でものすごく思い知らされた事があります。 あの人、タカラジェンヌだったんだ。 お茶会の時にも思いましたし、歌劇の最後の挨拶にも思いました。本当にここまで、これきり、終りがあるからタカラジェンヌ。嶺恵斗にきっぱりと終止符を打とうとしている姿に、打たれました。でもその姿、打ち切り方がいっそ清々しいと思いました。もちろんまだまだ続けて欲しかった気持ちはたくさんたくさんあるのですが、でもそれを超えてあの人の幕引きは本当にタカラジェンヌだった。いつまでもいられない有限の夢の国。私が観てきた芝居巧者なおかっちさんも歌の上手いおかっちさんも踊っている時にはらはら見ていたおかっちさんもヘタレだと言ってヨゴレな視点でイジってきたおかっちさんも悪役全開なおかっちさんも癒しの笑顔のおかっちさんも剣道部主将なおかっちさんもほわほわフィアンシーなおかっちさんも呉服商嶺屋の若旦那のおかっちさんもエジプトの私がカッコよく書きすぎたタレ目将軍のニコイチ相方のおかっちさんも、みんなみんな「タカラジェンヌ・嶺恵斗」の上にあったものなんだ(最後の方のはあまり気にしないで下さい)。 当たり前、といえばそうなのかもしれませんが、けれども「タカラジェンヌ・嶺恵斗」というのがこの最後にきてくっきりはっきりうかびあがって(私のような外野の立ち位置にも)、それが本当にすごいと言うか素敵と言うか目ウロコというか、とにかくぐあんときたんです(わかりにくい)。それに涙しつつも、それ故におかっちさんの退団を受け止められたような気がしています(まあ、後できっとその喪失感に今度はぐあんとくると思うのですが)。 史上最高の受験倍率を「タカラヅカが好き」という気持ちで乗り越えてきたおかっちさん。タカラジェンヌになってからも、まるでイチファンのように「タカラヅカが好き」と言っていたおかっちさん。そしてタカラジェンヌとして「タカラヅカが好き」と言って去っていくおかっちさん。決してスターではなかった、でもあの人は本当に本当のタカラジェンヌだったなぁと思うのです。 そんな風に「タカラヅカが好き」と言っていたおかっちさんと同じように、今おかっちさんの事を好きだと言っている大勢の人がいることを、タカラヅカにいられて幸せだと言って感謝していくおかっちさんにこそ感謝している人たちが大勢いることを、そしてそれを惜しんでいる人たちが大勢いることを(そしてその中に私もいることを)(おまえあっちいけよ)、伝えられたらなぁと願わずにはいられないのです。 言葉って怖い(自分でもどこをどう押したらこうピュア発言が出てくるのか)(なんかすごい素の気持ちが漏れてきた)(頭抱えつつ)。 じゃ!立ち位置戻りましょうかね! 最後だから言わせてください、というか今日思いつきました。 「おかっちさんにやって欲しい役:陶芸家」 つうかろくろを回してください、あの指で!あの手で!無駄にエロく! やべー、たまんなーい。 立ち位置戻ったところで、これにて。 |
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