| 2005年02月15日(火) | ||
| 王家に捧ぐマシンガン | ||
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その前に。 [スカステメモ:涼紫央魅惑のトークショー] やっぱり涼さんはオモロイなぁ。ロムっ娘ちゃんから教えてもらったネタがほとんどかぶってなかったのですごい得した気分ー(改めて感謝)。でも「ズルをしてでも優勝しますよ!」ネタは一部始終入っていました(笑)。つうか「軍手を濡らして」も「玉を仕込んで」も全て城ホールでの発言だった事に驚きです(笑)。中間発表(5位)で泣きながら「軍手を濡らそう」と熱弁していたらしいですよ?とにかく一位じゃなくちゃ意味がないと言ってました。ズルをしてでも優勝の主張も「『ズルをして』、は単なる形容詞なんです。10年たったら優勝したという事実が残るんです(大意)」みたいな事ゆってたよ!(転がりまわり) 同期ネタ3つ。 ・プラハの新公、最後のコートを脱ぐところで一緒に白ジャケットも脱げてしまったアクシデントがあった涼さん。結局そのまま最後までやって幕が下りたら(挨拶の時に着られるように)かのちかがちゃんとジャケットを持って待っていてくれた事に感動した涼さん(イイ話)。 ・史上最高の倍率だった82期。ふとそれを恵斗さんが乗り越えてきたのかと思うとちょっと不思議な気持ちになりました(笑)。 ・公演中の大休憩に(モニターに写る)スカステを見に行く涼さん(CSだいすき)。それにいつも一緒に行く同期の(確か)スカステ仲間がいると言っていました。恵斗さんだといいな!恵斗さんだといいな!(キラキラ) さて、本日の本題。長文上等王家に捧ぐマシンガンin中日。 さあむっさんのウザトークがはーじまるよー!(何キャラですか) ======== このへんナイルの流れ(予防線と言いたいらしい) ========= ======== このへんあらゆるものが押し流されている感じ (予防線と言いたいらしい)========= [大地の国エチオピア、神の国エジプト] 中日王家の一番の収穫というか発見というか。 エチオピアとエジプト、二つの国のなりたちというか、それをとりまく世界というのが自分的に猛烈に展開されていったのに驚いています。そのお陰で今まで見えていなかったものが、すごいイキオイで見えてきました。 大地の国エチオピア。人々は大地と共に生き、大地を守り生きていく、大地の実りが国の力であり、その実りをもたらす自然への信仰。 その対極に神の国エジプト。土地への信仰ではなく神への信仰、国を治めるのは思想であり、国の力は富であり武力であり。 実際の世界史とか世界地理とか詳しくないので、本当に勝手に舞台から想像した事なんですが、この二つの国はまさ国家が形成されていく歴史の黎明期の中で、境目の前と後ろにいたのではないかと思いました。すごい力技で日本史になぞらえると(えー?)、エチオピアが弥生時代の日本のそれなら、エジプトは古墳時代くらい?(はい?)。 これは東西関わらずの人類の黎明期の歴史のパターンだと思うのですが、農耕によって糧を得ることを覚えた人類は、土地に定着し、安定した生活を得ることができた。けれども土地の実りに左右されるがゆえに貧富の差が生まれ、やがてより豊かな土地を奪い合う形で「戦い」が始まる……。本当に見当違いかも。でもそう解釈していくと、この二つの国の位置関係がはっきりしてきました。エチオピアよりエジプトの方がより歴史的に成熟した国家であったと思うんです。だからエチオピアは負けてしまった。二つの国はまったく相容れない文化を持っていた、歴史的に境目となるぐらい異なっていた、だから争いが起こった。そんな風に思った訳です。 上手くいえないんですが、世界観というか時代感?それが見えてきたら、アイーダとラダメスがしたことって実は私が思っていたよりものすごい事だったんじゃないか?と思いました。私が感じているよりもエチオピアとエジプトの間には埋めがたい溝があり、エチオピア人のエジプトへの恨みも、エジプトのエチオピアへの傲慢さも、本当はもっともっとすごい事だったんじゃないか、と思い始めたんです。 そんなことをふまえつつ。 [アイーダの信念] 「大地の国、エチオピア」、それを体現していたのはやはりエチオピア女子チームだったと思うんですね。「おおエチオピア」のシーンは言うに及ばず、やはり子を産み母となる女性にとって、根をはれる安住の地を求め、子を産み育て命を繋いでく事が何よりも大事なことで。だからこそ祖国、その大地への想いが強い。「彼ら」よりも「彼女ら」の方がエチオピアへ帰りたがっていた。そしてエチオピアの女であるアイーダもそんな大地への執着というか想いは誰よりも強かったと思うんです。 ところでアイーダの信念である「戦いは新たな戦いを生むだけ」……ここにきて突然なんですが、この信念はイコール「平和を訴える」ではないんじゃね?と思ったんです(ええ?)。 アイーダは「戦いは新たな戦いを生むだけ」と世界に叫びつづけている。どうしてもっとストレートに「戦いをやめよう」って言わないんだろう、どうして「皆で平和を築こう」って言わないんだろう、って思ったんです。……それは実はこの世界には『平和』という概念がまだなかったからじゃないかと思いました。もっと言うなら『世界平和』か(ちょっとストレートな言葉すぎてイヤなんですが)。多分、まだこの世界では『世界』っていう概念がなかったんではないかと。あったのは「エチオピア」という世界であり「エジプト」という世界であり。歌劇の楽屋取材で涼さんが「平和という概念を知らないサウフェ」という発言をしていたのですが、この時代は誰も『平和』という概念を知らなかったのではないかと。あるのは自国の勝利か、負けか。負けない為には戦わなくてはならない、勝つためには戦わなくてはならない、どちらかが勝つまで続けなくてはならないし、どちらかが負けるまで続けなくてはならない……「二つの国が平和になる」あるいは「争わないで共存していく」、そういう概念が全く存在しなかったのではないかと思ったのです。『平和』という概念が無かったから、だからアイーダは「戦いは新たな戦いを生むだけ」と訴えるしかできなかった。じゃあそのためにどうするか、どうすればいいのかは全くわかっていない。答えにはたどりつかない。それでも「戦いは新たな戦いを生むだけ」と。その事実を、結論でも解決でも何でもないただ今そこにある真実を訴え続ける。終わらない変わらないことを訴えつづける。……余談ながら今更ながら「アイーダの信念」に「(終わる、終わらない)」というサブタイトルがついていることに気づいてびっくりしました。(私の中では)繋がったと思いました。 そんな風に訴え続ける(あるいは訴えるだけの)(訴えるしかできない)アイーダが、東宝の頃には巫女とか言った神がかりな存在に見えてました(というかそう思わないとあまりにもエキセントリックすぎた)。でも今回はどちらかというと「答えがみつかりそうでみつからなくてもどかしい思いで悶え(事実)苦しんでいる」といった感じを強く受けました。 現代に生きる私たち。実体験ではなくとも二つの世界大戦を乗り越えて、子供のころから『世界』という概念を知っていて、戦争がいかに愚かで悲しいものかを知っている私たちからすれば「戦いは新たな戦いを生むだけ」イコール「平和を皆で築きましょう」と繋がっていくのですが、それがアイーダには、というかこの時代のこの世界の人には誰にも繋げられなかったのでは? そこに『平和』という概念がなかったから、『世界』という概念がなかったから。 (すごいイキオイでむっさんの耳から何かが漏れています)(もう誰もついてきていないからいいよな!) そんなアイーダの前に現れたラダメス。恋に落ちる云々のラブロマンスはさておいて(置いちゃうのか!)、アイーダにとってラダメスとの出会いは一つの「新しい概念」との出会いであったと思うんです。「祖国を捨てて見知らぬ国へ漕ぎ出す」のはロマンチックなラブロマンスというより「祖国を捨てる」というそれまで無かった概念だったと。「祖国を捨てる」と言ったラダメスですら祖国への執着はあったわけですから、この時代に「祖国を捨てる」事がものすごく「ありえない」事だったのではないかと思います。今風に言うと「祖国を捨てちゃうなんて、ラダメス先輩すごく新しい!」です(馬鹿丸出し)。 「国と国が争い、戦いは新たな戦いをうむだけ」ならば、その国と国ではない「見知らぬ国」へ、戦いのない新たな「見知らぬ国」へ。自分の信念を貫くためには国を捨てるしかない。アイーダが自分の信念に対して最初に出した結論なのではないかと。本公演の頃は恋をして女になったアイーダが自分勝手に祖国を捨てる(自分だけがよければそれでいい)ぐらいに思えていたんですが、そういうのが少しなくなりました。確かに、身勝手なことかもしれない。けれどもそれが身勝手に見えるのはそれが「新しい」事であるから。いつだって一番最初の事は困難を伴うものなのだから、人々の理解を得られないことなのだから。 何よりも信念を訴えるだけでどうにも進めなかったアイーダが、ようやくその苦しい停滞から逃れらると思ったら、その為に多くのものを失っていこうとしているのだと思ったら、それもまた「正しい」と思えてきたんです。本公演の時は信念を貫くために全力疾走していたアイーダに「強さ」を感じていたのですが、今回は信念がある故に(その信念、あるいは「終わる、終わらない」という真実に気付いてしまったが故に)惑い苦しむ「弱さ」と受け止めるようになりました。 けれどもそのラダメス先輩の「国を捨てる?すごいアイデア!」はやっぱり成し遂げることができなかった。「エチオピア」「エジプト」という「世界」の概念は強く、そしてまだそれを超える『世界』という概念が生まれていない。「祖国を捨てる」という新しい概念は現実とはならなかった。 「戦いは新たな戦いを生むだけ」と訴え続けたアイーダの想いは、やはり「祖国に、大地に帰りたい」であったと思うんです。そうやって狂おしいほどに訴えながら彷徨うアイーダは、帰るべきところをずっと探しているかのように思えました。 「見知らぬ国」へも帰ることが叶わなかったアイーダは、最後の最後で帰るべき場所をみつける。それがラダメスだったんじゃないかと。見知らぬ国を求めて祖国を捨てるのではなく、祖国でも、大地でもない、ラダメスの中に帰る大地を見出す。愛しているから、と。その時初めて2人の間で「エチオピア」「エジプト」という世界が無くなって『世界』という概念が生まれたんじゃないかと。 それまでの世界とは「エチオピア」であり「エジプト」であった。けれども最後の最後に、必要なのは「祖国」ではなく、愛。そして愛し合う人々が暮らせる『世界』。 「大地の国、エチオピア」のアイーダにとっては、争いは大地を奪い合う事でしかない。けれども大切なのは、「大地」ではなく、愛。愛する事に「エチオピア」も「エジプト」もない。 2人が祈ろうとしている世界は「エチオピア」でも「エジプト」でもない『世界』。そんな『世界』に2人は『平和』を求む。アイーダの「戦いは新たな戦いを生むだけ」という信念は、『世界の平和を祈る』という新しい概念が答えとなったのではないかと思ったんです。 アイーダとラダメス、ふたりが新たに築いた『世界』という概念。 次の歴史への、道しるべ。 ふたりの愛が、この世界に新しい『世界』を生みだした。 (むっさんむっさん、大丈夫か?)(自分の中で繋がっているか?)(だ、大丈夫だって!) というわけで(誰にも伝わってないと思うよ?)、本公演に比べてアイーダを受け入れられる様になったのはこうやって「アイーダの信念」が私の中では(強調)繋がっていったからです。でも本公演見ていて「受け入れらない」と思ったのはある意味正解だったのかと思っています。だって彼女らは「新しい概念」だったから、あの物語の視点で見る以上、やっぱりアイーダとラダメスは異質でもっと言えば異常で、つうかありえない存在だったのだから。 それでも違和感を覚えつつ感動と共感を持ったのは、ふたりの築いた「新しい概念」は、今の私たちにとっては「普遍の真実」であるから。それは私たちの祈りでもあるから。 多分私、当時は完全にエチオピア女子サイドの視点で見ていたんだと思うんです(小芝居ネタ集めていたという方が正しいか)(笑)。だからやっぱり納得できないというか違和感が色々あったんです。でも世間では比較的評判が良かったじゃないですか?そのギャップって、どこの視点から見るか、「新しい概念」「普遍の真実」のどちらで観るかの違いだったんじゃないかなと、今にして思います。 物語における、物語の舞台の時代感、ていうのは大事だな、と思いました。今回の私はそれを掴んだから、こうやって今までとは違う解釈をしていけたんじゃないかな、と(まあ何をえらそうに)。もしかしたら、歴史的な知識があれば、そういう時代感を掴むこともできたかと思うのですが、それを舞台から読み取れたのは、やっぱり今回の舞台を観る上での大きな収穫だったなぁと思うのです。 伝わらないのを覚悟で書いています。本当にうっとおしくてすみません。 「むっさんなんかナイルの流れに押し流されちゃえ!」(そうだそうだ!) 次回「王家に捧ぐマシンガン」はエチオピアと真飛さんの話をします(続くのか!)。 |
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