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2020年03月11日(水) 東日本大震災から9年

9年前の今日、東日本大震災が起きました。その時、私は東京にいましたが、私の妻と長男は福島にいました。偶然、私の両親は妻の実家に居て、私の両親と妻の祖母と妻の両親と妻と長男は一緒に居ました。地震が起きた時はこの世の終りが来たのか?と思ったそうです。そして次の日に原子力発電所の建屋が爆発しました。その日のうちに私の両親と妻と長男は山梨に避難しました。当時は東京にも人が住めなくなるかも?と騒がれていました。福島から外国の人やコネや力のある人は皆んな退避しました。電車は止まり、高速道路は閉鎖され、国道も通行できない所がたくさんあり、ガソリンスタンドやバスは全て何かの権力に抑えられ一般の人は退避する事がとても困難だったそうです。両親は私の叔父が用意してくれた伝で避難出来る事になりました。両親が妻に電話をし「一緒に避難しよう」と言うと妻は二つ返事で避難すると答えたそうです。妻は長男の命を守らなければならないと是非もなく決断をしたそうです。その頃は、福島の中では、福島にはもう人が住めなくなる。福島から退避したら、国が福島を閉鎖するので福島には戻れなくなると言われていたそうです。なので妻は避難する時、友達と泣きながら別れの連絡を取ったそうです。そして妻の母も私の両親と避難する妻と長男を見送る時、泣いていたそうです。そして私の両親と妻は新潟県で1泊し、長野を抜けて山梨に避難をしました。その時、長男は生まれて2カ月つですから、妻がずっと抱いていました。ずっと車に乗っての避難だったので本当に大変だったと思います。山梨に着いたら今度は計画停電でこれまた大変だったそうです。そして私が妻と長男を山梨へ迎えに行き、菅野家の生活がスタートしました。長男の命を守るために、心を鬼にして素早い決断をし行動してくれた妻を私は尊敬しています。そして妻と長男を避難させてくれた私の叔父と両親にも感謝しています。妻の実家は地震で物が倒れたり落ちたりで大変だったそうです。その時は私の両親が来ていたので茶の間で私の母が長男を抱いていたそうですが、もし長男が奥の部屋で寝ていたら倒れた物や落ちた物でどうなっていたか分からなかったそうです。何かの力のおかげで、沢山の人のおかげで人の命は守られているのだと思います。


kanno

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