| 2009年02月18日(水) |
映画/泥んこに癒される/隠れキリシタン/噛むか舐めるか |
いろんな予定が、上手いことずれたりして、&上手いこと誘われて、映画レディスデーに妹と、 「少年メリケンサック」を観る機会に恵まれ。
(2009年2月現在の私の中での、オトコNO.2であるところの、ユースケ氏に関する称賛は、ファンサイトで叫んでおくとして)
あんまし期待せずに観ていたら、 田辺誠一が素敵だったーーーーーー!!儲けた!!
それはおいといて。 あのひとが、あんな顔するの、あんなセリフなの、ふっと笑かされるし馬鹿笑させられる。 何も、何も考えないで、ただ、ちょくちょく笑かされることを楽しめる自分だったのが好都合だった。 頭が、豆腐みたいになり、その豆腐を、ぐちゃぐちゃふるふると振られる感じ。
このぐちゃぐちゃ感は昔はキライだった。 ドロドロ感もキライだった。 吐いたものをマジ見つめるような快感なんて理解できないし、 あと、同じ理由でパンクもキライ。 「メリケンサック」の語の意味を知らなかった。 昭和の時代に、小麦粉とかのアメリカ製品を闇市か何かから運び出すための、微妙なデザインのリュックサックのことだろうと思い込んでいた。そういうのがあるんだろうなと。 そしたら違う。ゲンコツの威力を増すような装身具のことじゃん。
泥んこ遊びも同じ理由で、ある年代からキライになってた。 でも幼児のころ、確かに、好きだった時代があった。
メリケンサックのメンツはみんな、中年おやじになろうがどうなろうが、一種の泥んこ遊びが大好きで、 それぞれが王様気分で、本能全開で芸術を作ったかと思うと、また本能全開でぐちゃぐちゃ壊し、 それを毎回毎回泥まみれにも臆するどころか楽しんでまみれ、 他人にも容赦なく、光輝くような泥塊を投げ付けてくる。 そんな赤子。 そこに付き合えるかといったら付き合えない、フツー、常識的な大人は。 ただ、見てると、「あ、ばっちいのだが、楽しいかも。」ってなるんだろうな。こっちオトナだけど。
カンナはそうやって、「母」になっていった。
コドモに癒されるとしたら、 やりたいこと全開でそれを放出することに何の躊躇もなくて・ぐちゃぐちゃが大好きだったころを 容赦なく思い出さされるからだ。 泥に癒されるとしたら、 泥だったときのことをヒトが思い出されるからだ。 で、多分どこかで教えてもらった友達の言葉をふと今思い出している。その泥んこ遊びを再び一緒に楽しめるのがコドモとの生活だって言う。 そこまで楽しめるにはもっと頭が豆腐にならなきゃなんないのかしら。
ところでその映画のあとのランチとお茶で チョコレートは噛む派か舐める派かという話がでたが 噛みつつ舐めつつ溶かして味わうのは当然だろうと思っていたが 本当に人それぞれだということを思わされた。 舐めるだけ人が存在するんだ。へえー。それもこんなに身近に。 深い!世界は広い!いや狭い!チョコレートは今、ウチにチョコインフレかというくらい集まったが、 そこに妹からの「ロイズ石垣島」の塩味の効いたチョコが加わり、これ私は大好きなんだよ。
隠れキリシタンの話もでたがこれは つまり、昔からスキになる対象がどうしても 世間一般にあまねくステキと言われるほうのタイプとは違う人をスキになってしまうことの 後ろめたい感じ。 おおっぴらに言うと、世間様には、引かれるような趣味。 「そうだよね!」「私もそうだよ!」と盛り上がったのですが。 個々人の趣味のわけわかんなさはそれが世にどのような役割を果たすか考えてみた。
それは何か使命があるとしたら 「これも意外に素敵だよ、少なくとも、ステキだと感じている人間が、ここに存在するんだよ」と発することで カッチリ固まったものをぐちゃぐちゃ壊す楽しさを何ミリか世界に向かって提供すること。だろう。 それが快感だから、今日も勝手に勝手な対象に憧れる日々を保つことにする。
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