| 2009年02月16日(月) |
魂の卒業後の進路&宇宙にある源泉、を想像してみる。(感想その2) |
※あのヒト、酷ーい!って思ってる私の、私ン中も探せばその同じよな酷さがゴロゴロ見つかる。昨日も見つかった。 だから、あのヒトのことも今はちょっと許せるかも。 ちょっとだけ。今は。 「蜘蛛の糸」気分。
そういえば、昔読んで影響受けた本「生きがいの創造」でも気づかされたっけ。 今あるこの環境・この人間関係を、自分が選んだ上で、自分が生まれてきたことを。 何の為って、それは勉強を繰り返して成長する為。 縁ある人は皆、勉強仲間で、互いに協力関係。 たとえ彼が彼女が、どんな嫌なヤツだと思えても。 そしてこの、意のままにならない肌とか胃腸とかも、私の先生。
[決定版]生きがいの創造
で、前日付けで書いた日記の続き。 ゲリー・ボーネル氏の書について抱いたもうひとつの思い。 今度は著者の言葉を額面通りに信じる立場から。
個々人の魂状況に応じて、訪れる変化は、まちまちだという。 今の次元の肉体の制限からホントに卒業しちゃっていいほどに、もう充分勉強し経験積みワケが分かった人には、 思考を実体化させることができるという。 魂が元々から持っていた能力に目覚めて カラダという枷の制約から自由になれるという 卒業プレゼントみたいなことがあるらしい。 というか、卒業の目的がそれなのか。 肉体に、上からコンセントみたいにサクッと刺さっている、 魂(←元々から巨きな慈愛のパワー含有)の意識が、 肉体の意識と調和していって一致すると、スゴイらしい。
いずれは、人類みんな互いに、相手のことが自分のことのようにすっかり理解し合う時代が来るらしい。テレパシーみたいに。 言葉、要らない? 支配するとかされるとかも、争いとかも、無いらしい。 叡智と創造を仲良く分け合うひとびと。 いいなー。けど、
本書の示すアセンションイベントがもしホントに2012年だというなら、 そこでは私は、ひと苦労するほうのグループかも。 子どもたちの受験も無事に終わってる頃で、 夫も、彼が手がけるシステムのプロジェクトが一段落してる頃だけど・・・。
自分の(人間の)内に秘められた真価を 素直に認められるレベルまでは未だ到達してない人には、 まだです、もっと経験を積んでからです、と 今の次元の世界で留年?するという手がありそうだ。
その人その人に応じたそれぞれの歩みがあるので、他の人が無理に引き上げたりはできないし、しないほうがいいということらしい。 私はそれ、賛成だな。 飛び級して行ける人はどうぞ、お先に行って、でも見本を遠くで見せて欲しい。 私を無理に引き上げようとしなくていい。まだ卒業前に味わっておきたいことがある気がする。 そん中には、例えば、自分や子どものアトピーだとかからも学べることがまだあるわけ。 アトピーが無かったらこんなに生協に出資しないわけ。 こんなにオーガニックコスメを気にしないわけ。 身近に色覚少数派の人間がいなかったら、目に見えないものへの想像力も半減してたわけ。 苦痛に思うようなカラダの体質だとか、親戚縁者のしがらみだとか、そこからそれだからこそ、学んでることがあるような気がする。 で、それ、まだ卒業する時じゃないっていうか。
肉体の制約があるからこその。思考がストレートに実体化しない人間社会だからこその。 感情を伝え受け取ろうとするときの、努力とか、試練とか、 それを乗り越える爽快さとか、 そういうのも捨てがたいじゃないか、と思う。まだ味わって噛みしめていたい気もする。私はね。 大きくて眩い色の魂が小さくて地味な体に閉じ込められてる状態のほうが、 そそられる、っていうか 引き立つっていうのかなあ。 露出の少ない服のほうがセクシーじゃないですか。 カジモドみたいに。
そういえば私はセクシーも味わい尽くしてないよ。 性別万歳だよ。
そういったあらゆる矛盾葛藤はもう、 もう既に充分お腹一杯味わい尽くしてて学び尽くしてて 卒業年次に入っている人は、 もういいの、本当に自由になってくれれば。
そして私はどっちかというと、これまで人間が創ってきた古いものと それ以上に膨大な数の、自然が創ってきたもの、に 一部の例外を除く概ね多くのものに愛着があり、 その歴史との縁に対して感謝したいし、 それらが好きか嫌いかといえば好きなほう。 だから多分2012年には色んなものが手放せないかも。 ひょっとすると、懐かしがってあえて手放したくないタイプの人間かも? 手放さずに何とかかんとか矛盾だらけの存在として精一杯その瞬間を、 愛と慈悲との間でゆれながら短い一生を繰り返す今の次元に、 まだ留まっていたほうが、私には合ってる気がする。 歩みはのろく、一段一段なにかを貰いながら与えながら歩いて登ることでしょう。来世も再来世も、それは当分、続くでしょう。 遅かれ早かれ卒業するけど、もうちょっとゆっくり(笑) 2012年って早いよ。
いやー、一体全体、なぜ、誰のお陰で皆が生かされているのか。 なぜ全員の歩みが足並み揃っていないでバラバラなのか(あえて)。 全存在がおおもとで繋がってるデカ過ぎる源の 全存在の魂遍歴を刻む膨大な情報ソース、ハードディスク、 そんなのを想像できるかどうか。
命名できない形のエネルギーをこの命にくれる、その不思議な大元に あえて名付けてみたら、それが、アレなんだよね、きっと。 (そのことを、ずっと昔の全部の魂たちの経験集積データソースから、ストレートにヒントを得つつ、他人にヒントを与えている人も、たぶん、宇宙の至る所に存在してるんだろう。)
自分もあなたも誰も彼もがそんな、不思議な縁で生かされて歩いてて、 背中に背負った万能宝を使ってみんなをレスキューできるのに そんな宝を持ってたことを、鏡を見てても忘れてたりする、 吃驚するよな存在価値なんだねー、と確認しながら しみじみ見つめてみることは気持ち良い。 そこから、 「利己=利他」への完全一致への道が、開ける、予感もあり。 遠いけど、届かなくはない道でしょう、きっと。
何にせよ、この本から、ポイントをいくつか学んだ(再確認といってもいい)。 人類は(さらに言えば有機無機の存在は)皆、根っこで繋がってるということ。 で、だからそこに感謝ということ。 よそからの目じゃなくて自分の(つまり生き物の)価値を認めること。 自分も、誰も(つまり生き物はみな) あの宇宙の大きな源泉からエネルギーを貰ってる存在だからOKなんだと。 その基本を見失わせそうな「内的葛藤」からは、自由になっておくこと。
ここでの内的葛藤って呼ばれてるものは、内なる本当の自分の叡智を抑圧しているもののこと、らしい。 承認された経験が欠如しているとか。 親とか他者とかが承認しなくても、 自分で自分を承認できればいいんだって。 自分の中のどんな要素も例外なく「おっけー」って認められれば、それは確かに、 どんな誰のことも許して認められるだろうな。 だってその誰のあんなところそんなところは、 とりもなおさず、自分の中にも既に在ったことなんだから。
難しいけどシンプルなその基本を外さなければいいかな。 それさえ分かってればアセンションのイベントが何年何月とか知らなくても、自然を構成するものとしては充分幸せだ、 とか思える、それは 歳のせいか?まだコドモだからか?その両方? その両方でありたい気がする。
(そういえば2月16日って、旧暦だと日蓮上人の生誕の日だそうだ)
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