イラク問題やら北朝鮮問題をみるにつけ、自分の無力さを思い知らされるこのごろ、
ところで、どうして自分はWEB日記をつけているのかな、と思う。 ネットで日記を書く人は、既に沢山いる。 大量のアクセス数を誇る日記作家として名を馳せている人もいる。こじんまりとお友達同士でつけて読み合う人もいる。 ほんとにほんとに沢山の言葉がネットにあふれている。
私の場合は自己満足プラス、ごく限られた方々への近況報告公開といったところだろうか。 いや、自己満足の部分が相当大きい。 でも、未来の自分にだけ向けて書きたいのなら、鍵つきの日記帳に書いていればいいのに、ここに書くのは、 最小でも一人以上の他人の目を意識しているわけだ。 そのメリットは何で、その役割は何だろう。意味あるのかどうか。それを考えるとけっこう後ろめたい。 だって少なくとも通信料を払ってここを読んでくれてる人に対し、それに見合う何かを差し上げているかと言うと、無いわけだから。 むしろ、自分のしょうもない考えや、好きだと思ったものへの勝手な宣伝のために、私のほうが広告費を払って文を載せるべきかもしれないと思うと。
自分にとってのメリットならば、いくらでも数えられる。 読み手を意識することで、書きなぐりを一度冷静に推敲しようという気にさせられる。 どこかに読み手がいてくれると思うことで、ゆっくりだけれど更新を続けられる。 自分と他人の両方の目で、自分の中に起こった事を見つめるきっかけになる。
つまらないことを羅列しただけの、シロウトな私の駄文とは比較にするのもおこがましいけれど、 日本の中世に、日記文学なんていうのが流行ってたのも、 こんなふうに自分のことをひとごとのように見つめることに救いを探したのかな。 大変なことも、文章にして眺めてしまえば、たいしたことじゃなくなる。 諸行無常。短い短い、限られた人生だし。すっかり欲にとらわれていても、書き出してしまえば、結局何が大事なのか見えてきそうな。 仏教とか哲学とか、隠遁生活も流行った時代。ひぐらし硯に向かひて・・・とかいって。 そんな他人の日記を見る意味は、 「ああこの人、自分を見てるな。」「自分を見るってことは他人を見るってこと」「他人と自分を見るってことは、世界に3人以上はいるという、 もうひとりの人に代表される、人間を見てるってことだなー」 星の中に自分を見つけるような気分になるってことかも。かろうじて。 じゃあせめて、見るに堪えないものは書かないように気をつけて、続けてみようかなって思う。
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