(仮)耽奇館主人の日記
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| 2005年08月06日(土) |
火垂るの墓に思うこと。 |
昨日、日テレでアニメ「火垂るの墓」を放送していた。 私もあれを見る度に、涙を流すのだが、多くの人のように、戦争の悲劇に押しつぶされる兄妹の悲哀に泣くのではない。 原作者の野坂昭如の、あの作品を書かざるを得なかった魂の奥底を想って、その業の深さに涙したのだ。 あの作品はほとんど、野坂昭如本人の自伝のようなもので、事実、彼は妹を亡くしている。 この幼い妹は、もともと血がつながっておらず、当時少年だった野坂昭如の妻にするために、親族があてがった子と、今東光が書いていた記憶がある。 で、空襲を逃げ惑って、焼け野原の中で、「火垂るの墓」そのままの生活をしていたのだが、野坂昭如は無知ゆえに、病気の妹に食べさせてはいけないものを食べさせてしまい、それがもとで妹を亡くしてしまった。 それで、作家になっても、今東光の前で、酒を浴びるように飲み、「俺が殺した、俺が殺した」とむせび泣いたという。 この罪の意識、潰れそうな胸の中身は、作家ならば、小説という形で昇華させなければならぬ。 そこに、戦争の悲劇などという、世間一般への訴えなぞ微塵もないのだ。 徹底的に個人的なもの。 野坂昭如の魂の奥底をいかに読み解くか。 ただ、それだけなのだ。 それを理解した上で、反戦とカテゴライズするのならいいが、アニメ作品の「火垂るの墓」だけで、野坂昭如そのものが平和の象徴と勘違いしているようでは、戦争そのものを語る資格はない。 今、そういう人が多すぎるので、私は鬼面毒笑するだけだ。
・・・・・・
今日は、広島の原爆記念日である。 もう六十年目とか。 エノラ・ゲイの乗組員たちは、原爆投下を今でも後悔していないと表明しているそうだが、私は率直に言って、今のアメリカは全世界の核ミサイルでもって、地球上から消滅させるのが、最も平和的な諸問題の解決方法だと思っている。 爆弾を落とされて、感情的にならないやつがどこにいる。 ・・・・・・叫びなのだ。 私は、昔、母方の祈祷師が口寄せで、被爆者の亡魂を招いたのを見たことがあるが、その叫び声は、当然、反戦への訴えではなかった。 言葉にならぬ、絶叫そのものだった。
多分、野坂昭如は、自らの絶叫を「火垂るの墓」に込めたのだ。 そうして、読み解いていけば、本質的なところで、あなたはほんとうに涙するだろう。 今日はここまで。
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