(仮)耽奇館主人の日記
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昨夜、新しい教え子のヴィイとのメールがきっかけで、オヤジとのケンカを思い出した。 ヴィイと同じ年頃、セブンティーンの私は、ラグビー、美術、ケンカ、エッチに忙しかったが、オヤジからすれば私はひとつのことに落ち着かない、ちゃらんぽらんなハンパ者でしかなかった。 入魂の油彩画を描き上げても、「入選したのか?してない?じゃダメだ。二束三文の値打ちもねえな」とくる。 当然、血沸き肉踊るアツイ十代の私は沸騰する。 「なんだと、クソオヤジ!テメーに絵の何が分かるんでぇ!」 こんな調子で、何かというと、怒鳴り合い、つかみ合い、殴り合いをしていた。 ある時、ヤクザからもらったという、梵字入りの金の指輪を中指にはめたまま、強烈な顔面パンチを食らわせ、大量の鼻血を噴出させたので、ブチ切れた私は木魚でオヤジの頭を思いっきり殴ってやった。 そのまま担架で病院に運ばれる騒ぎになったが、私も別の日、オヤジを狙って延髄斬りを放ったところ、背後の観音像に誤爆して、足の甲を強打してしまい、担架で運ばれるはめになった。 延髄斬りを食らった観音像は、首がもげてしまい、現在でもそのもげた痕がある。 とにかく、何をやっても認めてくれないので、当時の私はオヤジを激しく憎んでいた。 檀家の誰かが死んだら、その新仏さんと一緒に生きながら火葬しようと、半ば本気で計画したくらいである。 でも。 そんなオヤジが糖尿を患って入院した時、こっそり私を呼んで、おまえとケンカしてこそ、おまえのことをかわいいと思うんだ、口喧嘩でもいいから、ケンカしようと言ってきた時、私はほんとうに驚き呆れた。 オヤジはケンカすることで、私を愛していたのだ。 そういえば。 体格的に私より劣るくせに、躊躇のないパンチやキックを放ちつつ、私の殺意のこもった右ストレートを思いっきり受け止めていたことを思い返すと、何と、よどみのない、コミュニケーションであったことか。 弱いくせに、無理してまで、私とのやり合いを愉しんでいたのだ。 父親としての悦楽。 今になって思うと、少しだけ分かるような気がする。
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「男は弱くっても、強くなきゃいけねえんだ。それも、ただ強いだけじゃダメだぜ。何かがなきゃな。その何かはてめえで見つけな」
そう言って、とうとう最後まで私をガキ扱いしたオヤジ。 でも、あえて、そうすることで、オヤジは私を奮い立たせていたのだった。 そういう親子の愛し方もあったわけだ。 全く・・・ 年頃の子供として、親はとにかく見返してやりたい相手なのだ。 それゆえに、反抗期というものが存在する。 それをオヤジはガチンコのケンカという形で、昇華させた。 今の若い父親たちは、甘やかしてばかりで反抗期の子供たちにすっかりなめまくられている感があるが、そんな子供はろくでなしに育つに決まってる。父親たちよ、子供の全力のパンチを身体で受け止められる「愛」があるか? なければ、父親なんてやめてしまうがいい。 むしろ、そんなナヨッた父親のいない方が、ましな子供になる。 そういうこと。 今日はここまで。
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