日記

2004年01月23日(金) Papa tole me(27巻 by榛野なな恵)

Papa tole meという漫画の新刊が出ていたので買ってきた。
小学生の知世ちゃんという女の子が主人公で、作家の父・信吉と、彼らを
取り巻く人々のかわいく切なくいとおしく、時には痛さも感じさせる物語だ。

私はこの漫画が結構好き。
どこが好きって、一見ほのぼのとした中に、果てしない孤独やその面白さ、
深淵な真理みたいなものや世の中の厳しさ、でもその裏側にある優しさとか
掛け値のない幸せみたいなものが全部内包されているところ。
そういうところが好きなんだと思う。

1話ごとに付けられているサブタイトルもかわいくて甘くて、でも時にぴりっと
からく、とてもセンスいいと思う。

さて、この27巻。
第3話目の“アイボリー・ゲート”。
元区長さんが、自分は重病なのでは?と思い込んで身辺整理をはじめ、そこで
あらわれた主人公の知世ちゃんに言う言葉。
「人は正義と名が付けば、どんなことだってしてしまう動物らしい。
   〜中略〜
 そんな時、もし知世ちゃんが小さな船だったとしても、
 ちゃんと重い碇があれば自分の場所を動かずにいられる
 強いエンジンがあれば自分の選んだ方向へ進んでいける」
という言葉。
そうだなあ!と思う。そうありたいなあと。
そしてこの言葉は、今の戦争とか起こっている世の中に対して、ものすごく
あてはまる。
これって作者の心からの言葉だなあと。そんな風に思った。

第4話。“インターリュ−ド”。
中学校の女教師が、新卒から7年いた中学を訪れると、そこには新しいビルと
公園が。
桜の木だけ、昔からあったものが残っているようだと知る。
中学校が出来るよりも前に思いを馳せ、ラストでその女の人がもの想う。
“時々の思い出は 繰り返し降り積もり層を成す
 目に見えるのは一番上の風景だけ
 時が止められないから
 ここが花園になっていることを せめて喜ぼう
 埋もれた光を私は覚えている
 それでいい”
・・・とてもとても胸打たれた。
埋もれた光。
たとえば子供の時とか。家族の思い出だったり。
高校の頃の友達とのことだとか。
私がずっとチェッカーズを好きだったこと、今も好きなこと、そのきらきら
した数々の思い出だとか。
今、イヤだと思っている仕事のこと、その多少なりとも良い面だとかを。
私がその光みたいなものを、覚えていられるような人間だったらいいと思う。

第5話。“ガーリーガール”。
主人公・知世ちゃんの叔母のゆりこちゃん(関係ないが私はこの人がかなり
好き)が、失恋してしまった従妹の中学生・ちはるについて、
「なんだか古い友人に会ったような木がします」と言うところに、ものすごく
共感した。
ちはるの母や姉が、その失恋について「過渡期だから」と笑う。
「皆すぐ忘れて笑ってたりするのよ」と。
そう、一般的に言ってそうだろう。・・・でも?
そうじゃない人もいるかも?
そこでゆりこちゃんが言う「みんなじゃないかも」という台詞。
彼女はきっと、自分のことを振り返って言っている。
その後、ゆりこは知世に「過渡期ってなに」と尋ねられ、「階段の踊り場みたい
なところ」と答えて、こう続ける。
「たいていの人はまたちゅーちょなく階段を上って行くのだが
 ほんとにこの上ではそんな素晴らしいことが待ってるのかぁ!?」
そして兄の信吉から、
「ゆりこ・・・・・・長い過渡期だなあ・・・」と言われるのだが。
・・・いや私もなんだが。笑
ゆりこちゃんがちはるに、
「悲しみだって力になるし、
 それはきっと君にとって貴重なもの」
と言う。
うん。
私もそう思うなあ。と。
たとえ世間に乗り遅れているとしても、それが悪いなんて思わないし、そこで
思ったり考えたりすることはけして無駄じゃないと、そんな風に思うよ。と。
しみじみ思ったのだった。


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