O様からお借りしたimago(1995 Vol.6−4)「特集・少女マンガ」がすごくおもしろかったです。 萩尾さんの対談もおもしろかったけど、大塚英志さんの『<少女>は<母性>を超克するか』という文章が私が残神で考えていたことと、重なって興味深かったです。
少女まんがが母性をいかなる形で主題化してきたのか?
と、彼は問います。なぜなら1995年当時、かつて少女まんがを描いていた漫画家たちが結婚出産し、雑誌には出産まんががあふれていたから。それは自分の母性を全面肯定するものだったので、大塚さんは、ではそれまで少女まんががくり返してきた<母性>をめぐる問いはどうなってしまったのか?母性を全面肯定するのと同じように、かつての少女たちは、自分達のその当時の状況を全面肯定していたのにすぎないのか?と問います。
そんな中でなぜ萩尾望都は未だ<母性>と和解できないのか?
大塚さんは、出産経験の有無によって、判断しようとは思わないとまず表明します。 そして、『マージナル』によって、萩尾さんは、母性との困難な和解という、少女まんがの不可能性そのものをテーマにした作品を作ろうとしたといいます。そして、『マージナル』についての考察が続くのですが・・・・
1995年当時『残酷な神が支配する』はまだ連載半ばでした。 萩尾さんは母なるものと和解したでしょうか?・・・未だに和解はされていないように思います。 大塚さんの文章を読む前は、私は、萩尾作品における親と子の葛藤を、作者個人の体験のせいだと思っていました。なぜそこから抜け出せないのだろう?という視点からしか見ていなかったように思います。 少女まんがにおける母性について、誰が答えを見つけたでしょう。答えを求めて問いつづけているでしょう。全面対決をさけて、やおいに走るというところもあるのではないかしら。あるいは、全面肯定の結婚出産まんがになってしまうとか。その中で自分の問題から逃げないという意味で、萩尾さんほどまじめな人はいないのかも。大塚さんの文章はそんなことを考えさせてくれました。
しかし、どちらかというと、全面肯定の方にいる私は、問い続けることのしんどさを思ってため息をついてしまいます。子から親へ役割を交替して、ちゃらになることもあるのではないかと。かつて親に反発して自立した子供は、自分の子供から反発され捨てられて、プラスマイナスゼロになるんじゃないかと。これは、私の個人的体験の全面肯定にすぎないのかしら。
生身の母親の体から生まれることだけは、断固として拒否して、いろいろな形で新しい自分が生まれる。そういう描写が萩尾さんの作品によくあるような気がします。実際、遺伝子操作と、人工受精と代理母のシステムがすすめば、生身の母は必要なくなるかもしれない。そうなったとき、本当に自由な人間になれるのかどうか。 私の想像力では、そうなったときの人の心を思い浮かべることができないのですが。
また、少女まんがは、抑圧される存在であったからこそ、その内圧がパワーの源になっていたと思うのですが、抑圧がなければ拡散するしかないかもね。やおいも、公然と認められるようになったら、やはり毒は抜けていくのかも。
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