本と編集と文章と
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2001年05月21日(月) 編集者とライター ライターと作家

編集者とライターをしていると自己紹介をすることが多いが、こういうとき、じつはぼくは少し恥ずかしい、と感じている。
というのは、編集者といえばキャッチャーのようなもの、ライターといえばピッチャーのようなものだからだ。
野球の選手だという点でいえば、両者は共通しているが、その職能としてはおおいに違う。
つまり、一流のレベルでは、この2つの職業は両立しないのだ。
少年野球では、ピッチャーとキャッチャー両方できます、ということがあるだろうが、プロ野球には存在しえないということである。
で、ぼくはどちらかといえば、ライターなのだと思う。ピッチャーの能力を使ってキャッチャーもやっているようなものだ。それが強みになる場合もあるが、ロスも多い。
そろそろ編集的な仕事からは足を洗って、物書き専業になるべきかもしれない。
あるいは物書きになりたいといっても、編集で寄り道した分、変な癖がついてしまっていた、ということになるかもしれない。

同じ物書きといっても、ライターと作家、の間にも、また大きな溝がある。
でも、そのことは、業界内のことであり、一般にはあまり認識されていない。ホーリーマウンテンの文章道場に送られて来た文章は、95パーセントが小説だった。世間の人は、文章といえば小説だと思っている。
ライターになりたい、といって、小説の原稿を持ってくる人がいたりする。思わず言葉に詰まる。
これは大きな勘違いだ。こういう言葉の感覚の鈍い人は作家にもライターにもなれない。
ビートルズに「ペーパーバックライター」という歌があるように、英語ではひょっとすると、作家のことをライターというかもしれないが、日本語ではライターと作家は全然違う。
原理的に言うと、ライターは基本的に無名で、商業的な要請によって、ノンフィクションを書き、作家は基本的に署名で、自らの内的な欲求によって、フィクションを書く。
世の中で流通している文章の半分以上は、無署名かそれに近い仕事であることを物書き志望者はよく見てほしい。
ライターの仕事は一種の「実用品」であるので、仕事はたくさんあるといえばある。
一方、作家の書く小説は「作品」であるので自由に書けるが、それが商品性を帯びるのは、なみたいていのことではない。そして、商品性を帯びる以前の「作品」は、妄想の固まりのようなものであり、ただのゴミである。しかし、作品が商品として認められると、作家は突然、金の卵を生む鶏となる。

つまりヒエラルキー的にいうと、作家志望よりは仕事をしている分だけライターが偉いが、売れる作家はライターよりずっと偉い、ということになる。

ただし、作家の中でもジャンルのはっきりした小説、ジュニア小説、ゲームノベル、ファンタジー、ポルノ小説、SM小説などは、固定した読者層がいて、実用的な消費物といえないこともない。実際、ライターが小遣い稼ぎでやっても書けるような作品が大部分である。推理小説やSFも本来このようなジャンル小説であるが、いまや非常に作家も読者も高度化している。要は志の問題であるのだろう。

…というくらいの地図は、物書き志望の皆さんは頭の中にしまっておいたほうがいいだろう。

ぼくも近いうちに、ちょっと集中できる環境を作って、小説を書こう。面白いのが書けるような気はずっとしているのだが…


村松 恒平 |MAILHomePage