私季彩々
DiaryINDEXpastwill


2003年04月04日(金) 車窓絵の生死

 昨日連絡が入った叔父のお通夜に帰省した。

 いつもなら車で2時間半かけて帰るのだが、汽車通勤を始めたこともあり、その楽さを再認識しているため、汽車にした(北海道人は列車を汽車という)。値段は特急往復の格安キップで3650円。ガソリン代なら1500円というところだからまぁ高いのだが、車窓を見ながらというのは悪くない。
 千歳の街を抜けると湿原と疎な林が続き、遠くにウトナイ湖の姿を見ながら水の気配を感じる。まだまだ雪景色だ。所々に見られた牧場や廃車の山も、地盤が悪くなるにつれて消えていく。春になれば湿原には緑が萌えて、蛇行する細い川があらわれて一面が滴るように潤う。この光景は車窓から眺めるのが一番なのではないだろうか。

 少々早く着いてしまったので、久々に街を眺め歩く。中心街の寂れようはすさまじく、活気のある店はほとんどない。記憶にある本屋も、おもちゃ屋も、スポーツ用品店も、面影だけを残して暗い。選挙事務所とポスターだけがやけに賑やかで、虚しい。
 駅前の中心街を越えると、遠くに100円ショップの看板が見えて、大きなスーパーとドラックストアがある。ほとんどの買い物客はここに来るらしい。小さいとはいえ1万人の人口があれば、そこそこの購買力はあるから、大きなお店も存在する。その分昔ながらの焦点は消え去るわけで、この規模の街が一番顕著だと思う。

 お通夜は滞りなく進んだ。寝たきり15年、そして危篤状態が10日続いたわけで、みんな心の準備は出来ていた。
 小一時間のお経を読んだ。漢文を日本語に直したものを読み上げていたので、字面を追いながら。わからない内容がほとんどだが、興味深い言葉も多かった。少し勉強してみたいと思う。死者に送る言葉としてはどうかとも思ったが、生死は一体で超越すべきものということらしい。
 集った人は100人ほどだろうか。多かったのか少なかったのかはよくわからない。故人の略歴は重く、大正生まれで満州から東南アジアへの転戦を経て帰国し、この小さな町で生きた。否応なく昭和初期を越えて生まれた人々は戦争を経験している。あの穏やかそうな方々が、そんな経験をしている。それはとても貴重なのではないかと思う。

 少しだけ親戚の方々と話をする。疎遠だったことは否めず、あまり話の種もないのだが、私はこういう席が好きである。あまり身の上話をできる状態ではないのだが、死に際してこれだけの人が集うというのはすごいなと思う。私が今死んだらと思うと。

 帰りの車窓は真っ暗で何も見えなかった。車内は明るく、窓に映るのは斜め向かいの女性の組んだ脚。規則的に流れる街灯と、その脚のふくよかさが交差して、夜の鈍行列車は闇を切り裂く。誰も乗らない無人駅を通過していく。死者すらも寄らないようなこの駅を見る窓に、生の象徴のようにある。携帯電話の音が鳴って、その脚が組みなおされる。
 そして、街の明かりが増えて、看板も賑やかになり、その姿は消えた。そんなものを見なくても人は存在している。

 故人は85歳だった。葬儀場で見た昔世話になったおじさんたちはみんな明らかに老けた。子供だった連中は若者になった。私を見送りに外に出た両親は、小さかった。 Home&Photo


とんと |MAILHomePageBBS

My追加