私季彩々
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2002年12月24日(火) 多様性こそが源である世でありますように

 クリスマスはキリストさんが生まれた日と聞いていたが、必ずしもそうではないらしい。実際の生誕は紀元前4年とか聞いたような。どうしてそんなにあやふやなのだろうか。今は確定しているのかもしれないけれど。

 世界史好きな私だが、最近の読書量は超低空飛行なので詳しいことはわからないが、実際まことしやかに習ったり書いたりされているものは驚くほど少ない書物や史跡を元にしているに過ぎない。ローマ史などは五賢帝時代の一部はほとんど記述が残っていなかったりするし、五賢帝時代の直前の皇帝達は主観の混じった史文のために大きく捻じ曲げられ、記録抹消刑に処せられた皇帝などは手がかりとなる肖像まで破壊されてしまっている。断片を拾い上げるパズルの様なもの。歴史にキリストが登場して年代記とリンクするようになるのはかなり後のことのようだから、細かなずれが生じるのは仕方ないのだろう。
 しかしながら、宗教というものは権威が大好きなようで、時を経れば捻じ曲がる。古代ヨーロッパでは冬至は弱まった太陽が復活する日で、神々の復活を祝う聖なる日だったとのことだ。もちろん神様ととなりで一緒に暮らしているような大らかな時代だからそんな権威ばった日でもなかったようだが、時代と共にキリスト教一色となっていくにつれ、キリスト誕生の日は古来の神々の復活の日に重ねられてしまったというのが事実のようだ。

 サンタクロースというのも元々は聖人の偉業に感謝する日らしいが、コカコーラの販促の衣装が全世界に広まったのが本当で、ヨーロッパの牧師さんとかが本来の形に戻ろうと運動している。それはそれで結構だが、商業主義のサンタクロースなどは冒涜だともいっているらしい。

 そもそも神話や聖典はある種の事実を背景としているのは確かだが、権威づけで大きく脚色されている。そのバリエーションは大して多くはない。そこに全ての答えを求めるのは無理があると思う。だからそういった類は全て物語り形式なのだろう。人の想像力や読解力は宇宙より広く、互いに影響を受け合って大きな潮流になりがちだ。神様が一つなら、寛容さが失われてしまうようで私は怖い。

 伝説や神話を荒唐無稽と一蹴してしまうのは寂しいし、信じ込んでしまうのはもっと怖い。清濁合わせて人であり、濁りから生まれるのが生命だ。人が素敵な生き物であることは、そういった幸せな嘘や壮大な古代のロマンを幸せに咀嚼できる寛容さを持っているからだ。そんなことを偉大な哲学者が言っていたような。

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