私季彩々
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2002年07月09日(火) 初級宗教観

 私が大学に入った頃、入口の通りにはオウム浅原の写真と本が山積みしてあった。すぐそばには統一教会の支部があって、入学生の何人かが大学に通うより早くつかまって、こっちにはまるというのを良く聞いた。宗教というのはなんとも胡散臭いという固定観念は、考える以前にここで固まった。
 東京に遊びに行ったときは、草加から浅草へ向かう電車が荒川の橋の上で止まった。何の放送も無く数分後に動き出すしたが、北千住の駅で折り返しになった。爆発事件があったとか。ぶらぶら歩き回って、昼にお好み屋に入ると、地下鉄で何か事件があったらしい。地下鉄サリン事件。
 そんな中、2年ほど音沙汰無かった友人が物理から神学に転向した。熱烈なクリスチャンになって、どこか哀しげな風体も吹き飛んだようになった。社会に出てから教会に通うようになった友達もいた。

 教会に行ったのはクリスマスのデートくらいという不信人さだが、彼女の名前が教会のポストの中にあったのには少し驚いた。家族はみんなクリスチャンだが、彼女は洗礼を受けずにいるとのことだった。クリスマスくらいは聖書を読みたいといっていたが、宗教というものになんの知識もない私は、ただ「いいね」と答えただけだった。政治や宗教の話というのは、踏み込むにはためらいもあるし、私自身にとって未知の分野であるし。今思えば、家族全員がクリスチャンなのに、洗礼を拒否するということの意味の深さを知らずに、深く付き合うなど無理な話だったのだと思う。

 そういいつつ興味が無いわけではなかった。特に最近、洗礼を受ける友人が増えたり、自然環境のことを考えると、またローマ史を齧ったり、イスラムの潮流を思うに連れ、宗教観というか自然観というものの背後に何か大事なものがあるのか、果ては無いのか、欧米的なもの、イスラム的なものとは何かとか思いを馳せる事が多い。

 私の場合の入口は、自然観に対する宗教観であり、またローマ・ギリシャ史に対するキリスト教観である。聖典も読んだことが無ければほんの知識も無い奴だから、思いを馳せるのは歴史的俯瞰。
 古代史や塩野七生さんのローマ史を読んでる人間にとって、キリスト教史というのがどこか信じきれないのは、一神教という不寛容さにあるのかなとも思う。自然観として、8百万の神々を祭る方がよっぽどバランスが取れる。
 キリスト教に入信した友人は、全てを聖書に求める。そのことによって解放されたようで、本当に幸せそうで何もいうことは無いのだが、私にはしっくりこない。
 だからといって既存の宗教に答えを求めるのはどうかとも思うのだが、個人的には神道や仏教に惹かれるものがあった。日本において、神社やお寺にクリスマスツリーを飾ってしまう「寛容さ(いいかげんさ)」に魅力を感じるし、これまで世界に平和を達成できなかった無力な宗教達には無い何かがあるように思えたからだ。

 最近になって、ほんの少し本を読んだり、ネットの文を読んだりして興味が深まってきた。どうやら、本来仏教は、天国も地獄も論ずるものではなく、現世をいかに生きるか、いかに関係するかを相対的に問うものであって、絶対神も無ければ、信仰は捨てよ、というものらしい。神道も、天皇制に引っ張られている部分もあるが、絶対神のない「和」を体現する等身大の神話ということで収まるらしい。
 何より、キリスト教徒の内村鑑三にしても、盲目的に信じるというのは危険なことで、何かを信じることによって個人の領域を犠牲にするものではないとのこと。どんな宗教を信じていても、人の魅力は別次元だということも事実だろう。

 ま、私がこんなことを論ずるのは10年早いのだが、歴史と自然を秘めたライフワークにしたいと考える人間にとって、避けられないし魅力的な分野のようだ。何より、「〜教」とつくものに、「信仰を捨てよ」という言葉があることは興味深い。
 この辺のことについては、是非とも教養を深めたいなと思ったりします。


劫初より造りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つうつ(与謝野晶子)

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