私季彩々
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2002年03月08日(金) 送別会は楽しい?

 3月に入り出る人はいる人が様々に入り乱れる。私の会社でも2人が辞める。そのための送別会が一席あった。2人とも大学受験に挑むという理由だ。頑張れとしか言うべくもなく、エールを送ってお別れとなった。

 卒業となれば、まぁ区切りだからめでたい。まだ学生したりないと思う人、とっとと社会人になりたい人、実は大学は肌に合わなかったからという人、次のステップに胸を弾ませる人、様々でしょう。
 定年となれば、悲喜こもごもあり、凡庸な繰り返しの中にもドラマがあったり、義務感ややりがいや挫折や惰性を含めて、とにかくご苦労様という気もちで送り出せるものだ。送る側は、その後の不安や、定年という遠い先の話が現実にあることを感じつつ、仕事と自分の位置関係を一瞬考えてみたりもするだろう。

 「新しい門出を」といって送られる場合でも、その先が希望どおりとは限らない事もある。希望などなくても期限が来たから送られるということもあるだろう。送別会を待たずに自ら途中下車する人もいる。円満にしろご破算にしろ、別れというものはいろんな場面で現れる。
 送る側でも、心から送れない場合もある。相手がきらいな場合もあるだろうが、むしろ自分が送るに足るほどその組織や環境に満足できていなければ、ねぎらいや感謝の言葉もどこか空々しくねたましい感じがしてしまう。

 そんな気持ちを私は否定しない。人はそんな心の小ささを抱えつつ、何度も送られて、時には逃げ出して新しい機会に飛び込んでいく。

 そんななか、切れないものがあるとすれば、それが友情だったり愛情だったりする「情」というものなのかなと思う。組織ではなく、個々人といして付き合っていけるとしたら、「ちょっと方向変えてみることにしたよ」の手紙一枚で済んでしまう事かもしれない。そのさりげなさがとっても素敵だ。

 別れた後に残るもの。送った後には何となく声を掛けにくかったり、再び顔を出しずらかったりする関係は多くあるだろう。私はむしろそっちの方が多くて、一度離れた場や人とはあまり会いたくはない。礼儀を失して逃げ去った場所もあるから尚更だ。

 送別会は自分自身を見つめる場でもあるように思える。酒が少し苦かったなら、何かが足りない。自分が足りないのか、その場が合わないのかわからないけれど、同僚の全てが苦手なようだったら自分に幼さもあったりするのだろう。

 間違いないことは、そんなことなど思いも寄せず、感謝と健闘を祈って乾杯できればそれが一番良いわけだし、ほとんどの方がそうだろう。
 そんなことを思ってしまうのは、私がまだ幸せを知らないからだと思うのですがね。 Home&Photo


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