私季彩々
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2001年12月12日(水) 優しさと対峙する

 大好きな渡辺貞夫のCDを聴きながらほろ酔いです。
 そういえば最近ナベサダが頻繁にTVにでていた。音楽生活50年だかだそうで。一度コンサートをと思いつつまだ行った事がない。札幌にも来るのだけれど。一人で行くのもなんだし、貧乏も重なって。しくしく。
 かっこいい大人というのは若さにもまして若々しいもので。

 最近出会った人にこんな人がいた。主婦なんだけれど病で歩くことが困難で余命も数年とのことだ。そんな中、同じ病侵された人を愛してしまったとのこと。家族とはどことなく疎遠なまま過ごしてきてしまった事。キリスト教の信者でありながら神の道に背いているとのこと。
 家族と、愛する人と、信仰をもっている、それだけで十分幸せだと思える人が、そのベクトルが少々入れ替わっただけで全てが覆い被さる重圧に変わるわけで、幸せの形というのはまさに多面体だなと思ってしまう。

 優しさというのは力強い半面容易な自己満足にもなる。受け入れられなかったり気付かれなかった優しさは、急に押し付けがましくなって憎しみに転化する。愛憎というよりも優憎と言った方が、私には直感的だ。
 優しさを盾に相手の気持ちに合わせて嘘をつく。一時の誓いに縛られて今の自分に嘘をつく。決心のもろさにたじろいて失う自信に寛容さも失っていく。全ての後ろ盾であった信仰さえも自分を押し潰す。

 傷つくのは優しい故。私には良くわからないけれど、傷つけることも傷つく事も愛ならば多くの人にその愛を分け合う事も出来ないでしょう。だから世にはこれだけ多くの人がいて、人類愛を誓う人々にも我が半身といって特定の伴侶がいて家族愛を殊更に強調するのでしょう。
 だとすれば優しさの反射に関しては鈍感な方がいい。鏡に映った自分の姿や発した優しさの反応を期待するのはやめましょう。八方美人、結構じゃないですか。孤独であるという事を自覚できるならば。

 究極の解決法は”我全て独りなり”かと。神の前に対峙するにしろ、雪山に佇むにしろ。例え愛する人に寄り添っていたとしても。


 まぶた閉じ仰ぐ唇 降る雪を涙にかえて”さよなら”告げた Home&Photo


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