私季彩々
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2001年09月25日(火) 明日のパンより今日の感謝

 キリスト教徒2人の結婚に際してこういう話があった。二人は共に向かい合って生きるというよりもむしろ同じ神様を見つめて生きるんだ、とのことだ。同じものを見て生きること。それが彼らの信仰であり神の前に一人で立つという事が基本らしい。
 全ては神のみ手にゆだね、自らが行った事に慢心することなく全ては髪の与えたもうとことというらしい。
 人は努力して得たものを自らだけのものとして慢心に陥る。自信がエゴになって周りを見下げてしまう。比較が生まれる。競争が格差を生む。
 それらを解決する手段は自らには何もなく罪だけがあることを認め、全ては神の御技と感謝する事だという。
 素晴らしい。が、そこに自分が見えない。というのは私だけなのだろうか。
 彼は勉学にいそしむ。彼女はそれを支える。何故彼は勉学にいそしむのか。それは神を知ることだからだ。では何故彼女は彼を支えるのか。彼を愛しているからだ。
 生きることは神を知ること。生業は神への賛美。まことに美しい。

 しかし私にはわからない。何かをしたいと思うことはエゴなのか。そのための努力は常に堕落を生むのか。自立した個人というものはいったいなんなのか。

 彼はまさに支えられている。学びたいことを学ぶ。それを今後の収入へとつなげることも考えずひたすら学ぶ。それを妻が支える。美しいがそれが独立した個人なのか。夫婦は二人であっても一人づつだと彼らはいった。助け合いは美しいし、助けられるということは互いにとってうれしい事だ。

 よくわからない。彼の現状が二人を引き裂く事になるなら彼は勉学を全て捨てる用意があるという。それが真実なのだろうか。彼女のなかに知りたいことややりたい事が出来た時に生活は支えられるのか。

 私は本当に俗っぽい。一つ思うことは二人で生きるときにどちらかがどちらかに尽くすという状態が固定してしまう事が怖い。”妻は夫に従い・・・”と牧師さんはいった。古い言葉だからとは思うがそれはどうなのだろう。

 現在二人とも収入がない。これからどうするのかなどは何も考えていないようだ。そんな二人に不安を持ってしまいつつもその先を聞く気にはならなかった。彼らにはそんなことは不安に当たらないからだ。

 その状況は本当にうらやましい。明日のパンより今日の感謝。そういうことなのだろうか。 Home&Photo


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