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2006年05月13日(土)
国会では教育基本法案の改正により「愛国心」を巡る表現について、 なんだか与野党でもめているようだ。 日本の伝統・文化の尊重、郷土や国を愛する心、 これは至極、真っ当なことである。 太平洋戦争終了後、日本はそれまでとは全く違った方向に軌道修正していった。 それは決して悪い事ではなく、近代民主国家への 最短の近道であった事は間違いない。 しかし、その過程で伝統や文化は軽んじられ、 外国文化が、あたかも伝統文化の様に闊歩しだした。 その結果、日本は独特の文化を世界に発信する国になっていったのも事実だ。 民衆は、次から次に繰り出される産業的文化に飛びつき、 翻弄され、日本古来の伝統や文化半ば否定しだしている。 「古い物を否定する事から想像は始まる」と言う言葉の意味を履き違え、 古い物=伝統と勘違いしているのかもしれない。
国家的伝統を否定した共産主義は1世紀も立たずに自滅していった。 伝統を否定することは、自国の根源を否定することになり、 国家の基礎たる根源の無いところに新しい国家建設は歴史的にありえないのだ。
また「愛国心」を太平洋戦争時代の軍国主義を彷彿させるとして 否定している者も多いが、あまりの非見識に呆れるばかりだ。 当時の軍政下で用いられた「愛国心」とは真の愛国心ではなく、 国家に強制的に忠誠を誓わせる強制的国粋主義である。 愛国心とは、国を愛することであって政府に迎合することではない。 国を愛する者は、国の長期的維持に腐心し、国を司る者が誤った時は 場合によっては物理的手段に訴えることも否定しない。 1960年代の学生運動も、是非はともかく一つの愛国心の形と言える。 政治が愛国心を発する時は特に危険であるが…。 その反面、民衆の愛国心が政治を動かす力は未知に大きい。
生まれ育った郷土を誇りに思う心と同じで「愛国心」は大切である。 だが、それは「人から与えられたり、強制されたりするものではない」ものである。 「愛国心」とは、正に自らの内面から「自然発生的」に、 或いは「本能的」に湧き上がる「民族的自尊心」だと考えたい。
「民族的自尊心」…日韓ワールドカップでの日本代表チームの活躍や 最近ではWBCの優勝、トリノ五輪での荒川静香の金メダルに 歓喜した日本人も多かったのではないか。 もうすぐドイツW杯が始まれば、日本国民の大多数は「民族的自尊心」を持って 日本チームを心のそこから応援するだろう。 そうした自発的に湧き上がる「愛国心」は、 国家が敢えて押し付けなくとも確実に根付いていると思う。 それは太平洋戦争時代の国家による強制的国粋主義の間違った愛国心ではない。
このような「民族的自尊心」として、ソフトな表現で「愛国心」を 今の教育の場で問いかけるなら敢えて問題とは思わない。 かつての日本と違い、今や民主化が進み「成熟期」に迫る現代。 予期せぬ「個人主義」の台頭の影に薄れ行く「国家意識」を立て直す為に、 「民族的自尊心」として「愛国心」を教育しても良いとは思う。 たとえばサッカーでも野球でも隣のK国には負けたくない。 これと竹島の問題を一緒にするのは国粋主義にも当たるため 教えるほうも難しいとは思うが…。
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