| 2022年06月07日(火) |
家人が海の向こうに旅立っていった。彼が受賞してから折々に、同じ写真家として妬ましくない?というような言葉を貰う。だから考えてみるのだが、私にはそういう妬ましいとか羨ましいという感覚がすっぽり抜け落ちている。まったくもって羨ましくも妬ましくもないのだ。何故だろう、我ながら不思議だ。 彼と私は確かに、同じ写真家、だ。しかしまったく撮り方も作品の作り方も何も、異なる。どう異なる、と言葉に今でききらないのがもどかしいが、たとえば、ポートレートひとつとっても、彼の被写体への向き合い方と私の被写体への向き合い方が、異なる。距離感が違う、とでもいうんだろうか。 もし、ここでほんのちょっとでもリンクするものがあったら。私はもしかしたら彼に、嫉妬したりするのかもしれない。でも、何だろう、彼の距離感を尊敬こそすれ、嫉妬したためしが、ない。 ああ、そうだ、嫉妬したって何したって、その距離感は私にはない、からだ。彼ならではのアプローチがあり、私には私のアプローチがあり。その距離感は、私には私の、彼には彼の、方法でしか辿り着かない。それが分かっているから、羨ましいと思う隙間が、ない。 今回の受賞も、唯一羨ましいなぁと思ったのは、受賞した写真集を向こうが出版してくれるということ。これは、お!いいなぁ!と思った。ま、それはきっと、私は私で本の出版に多少なり仕事で関わっているから、出版、という事柄に惹かれる、という、何ともこう、不純というか何というか、我ながら笑ってしまう動機なのだけれども。 なんで一緒にイタリア行かないの? ドレスアップして行けばいいじゃない!とも言われたのだが。逆にその感覚に驚いた。いやいや、彼が受賞したのであって私は関係ないじゃん、という自分がいるのだ。彼に便乗して行こうという感覚がまるで自分にないところが私なのだな、と私自身は納得している。 何はともあれ、彼は出掛けてゆき、私と息子は今日、ふたりきりの晩御飯を食べた。ふたりきりだからアイスも食べれるね、なんて言い合いながら、けたけた笑って食べた。その息子は今、ワンコと一緒に眠っている。
来週末の加害者プログラムの打ち合わせ。大船のプログラムは少人数で、かつ、通い始めてまだ間もないひとたちばかり、だ。その状態でできることできないことというのがあると今日S先生と話していて気づいた。池袋はメンバーが認知行動療法等或る程度進んでいて、そういう意味である程度のベースができている。でも、大船のメンバーはそれがまだまだだったりする。そういう中でできることできないこと。なるほどな、と思った。 先生と話しながら、テーマを絞ってゆく。いつもそうなのだが、こういうことはオンラインではできない。直に会ってああでもないこうでもないと互いにぶつけあってはじめて、これでいこう、というものが生まれて来る。私も先生も、アナログな人間ということなんだろうか。こういう感覚は、いつも、直に味わいたいタイプなんだろうな、とは思う。まぁつまり、アナログなんだろうな。 帰り道、青梅が安く売っていて、思わずまた買ってしまった。今家ではエキスを絞り出している梅さんたちが1キロ、ボールの中で眠っているのに。大船のこの、商店街は、魔物だよなぁと思う。いつもひとで賑わっていて、その賑わい方が、亡き祖母を思い出させる雰囲気で、私はつい、惹かれてしまう。 らっしゃいらっしゃい、安いよ安いよ! 魚屋のおじさんお兄さんたちのその掛け声も好きだ。聴いてるだけで祖母を思い出す。いや、祖母がそういうことを言ってたのではない、そうじゃなく。昔祖母と一緒に歩いてると、町中のひとたちが「おお、Kさん、寄ってってよ、ほら、今日はこれが安いんだよねー!」「こっちこっち、こっちにも寄ってって!」と、みんなして祖母を引っ張り廻していた。私は祖母の後をついて廻っては、みんなに頭をぐりぐり撫でられて、おこぼれをあずかっていた。私は町中のひとたちが気軽に声をかけてくる祖母が、そしてそれにひとつひとつちゃんと応えてゆく祖母が、きっと誇らしかったんだな、と思う。祖母はいい意味でも悪い意味でも、とにかく裏表のないひとだった。嫌な事は嫌、いいことはいい、好きなことは好き、嫌いなことは嫌い、そのひとの前でもはっきり意思表示するひとで。私はその、祖母の在り方が、大好きだった。安心したんだ。ばあちゃんは嘘がない、というそのことに。安心できた。 ばあちゃんは悪口も言うが、言う時ははっきりそのひとの前でも言った。陰でこそこそ、というのがなかった。表では褒めて裏ではけなして、というのがなかった。だから、祖母が「私はあなたの味方だよ」と言ったら、本当に味方なのだと信じられた。 祖母の話を始めるときりがない。どんどん溢れてきてしまう。 |
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