ささやかな日々

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2022年05月15日(日) 
宿根菫がこれでもかというほど茂ってきてしまった。もうだいぶ前から「切り詰めなくちゃ」と思い続けている。思い続けていることは覚えているのだが、分かっているのだが、ちっともそれが為されていない。せっかく伸びた子たちを切り詰めることに勝手に申し訳なくなっている。でも、このままでは絡まるばかりで、そっちの方がよろしくないことも、分かっている。
ということで、今朝思い切って、もう何も考えずに鋏をじょきん、と入れてみた。じょきん、じょきん、じょきん。適当に、もはや手元をほとんど見ずに。見ると躊躇ってしまう自分がいるから。じょきん、じょきん。鉢からはみ出て垂れ下がっていた子らを立て続けに切り詰める。
ふと、割れたばかりの、詰まった種を見つけた。その種だけ別に拾い上げる。と、続けて重なる葉の奥にもうひとつ、種を見つける。その子も拾い上げる。この子たちをもらってくれる誰かにいつか渡そう。そう思いながら、種を握り締める。

家人のイタリア行が目前に迫っている。二週間かぁ、長いのかな短いのかな、よく分からない。何処までもひとごとのように思えて、実感がない。寂しいとか悲しいとか、そういうものとは程遠い、何というか、こう、目の前で無声映画がかたかたと廻っている、そういう感じ、だ。
頼まれてデパートにお土産の和菓子を買いに行った。彼にここの落雁を勧めたのは私。昔よく、祖父にお土産に買ったものだった。祖父がおいしいおいしいといつもにんまり食べてくれるので、私は何度もここの小倉の味のする落雁を買って帰ったものだった。見た目も可愛らしくて、だから海外へのお土産にはちょうどいいんじゃないか、と。干菓子は日持ちもする。
買った時は、そんな自分の昔の思い出にじんわり胸があたたかくなったのだけれど、それも束の間、バスに乗る頃には消えてしまい、残るのはただ、ぼおっとする自分ばかり。何だろうこの、現実感のなさ。

そんなこんなで、ぼんやり午後を過ごしていた私に、家人と息子から注文が。夕飯は唐揚げにしてくれ、ということで。そういえば唐揚げは久しぶりだ。このところ家人が、唐揚げの翌朝胃がもたれると言い始めて以来、作ることを控えるようになったんだった。でも、注文とあらば、作りますよ、ということで唐揚げの準備にかかる。
大皿に山盛り。作っている途中から息子と家人がぱくぱく食べてゆく。サラダなんてそっちのけでふたりとも唐揚げをぱくぱく。

すべてが、何処か遠い。解離まではいかない、現実感消失。何かストレスなことでもあったかな、と顧みるも、何も思い出せない。諦めて、このぼんやり感にただ、浸る。

数日前、昔からの統合失調症の友が入院を余儀なくされた。入院した彼女がそこから、「一週間で済まないみたい」とLINEをよこす。そか、まぁしっかり休んでのんびり過ごしなよーと返事をすると、「やだよ」と返事が。「一週間で何とか済まないかな」と。
私は返事をするのをやめた。
これ以上続けると、私は酷いことを言ってしまいそうだった。「そういうことを言われても私困る。主治医とちゃんと話してね」とずばり言ってしまいそうで。
分かっている。そんなことを求めて彼女がLINEをよこしたわけじゃないだろうこと。そしてまた、通常の彼女とは今、状態が異なっていること。
でも。何だろう、今私にも余裕がない、余力がない。何処かすべてが上滑りで、硝子戸の向こうで。現実感が本当に薄い。
ラディゲの「肉体の悪魔」冒頭、こんなくだりがある。
「僕は決して夢想家ではなかった。僕よりも信じやすい性質を持った他の人たちに夢と思えることも、僕には、たといガラス蓋があってもチーズは猫にとって現実であるのと同じように、やはり現実に見えた。だが、蓋はあるにはあるのだ。
 蓋がこわれると、猫はそれにつけこむ。たとい、飼い主が蓋をこわして、そのために手を怪我したとしても。」(新潮文庫刊 ラディゲ著「肉体の悪魔」より)
ガラス蓋は。私の場合たいていそれは硝子戸なのだけれども、それは確かにあって。でも、あまりにきれいに磨かれた硝子戸だから、それがあることをつい忘れてしまう。忘れてしまうのだけれど、手を伸ばすとその手は硝子にぶち当たり、あ、と思わせられる。その、繰り返し。
うまく言えないのだけれど。離人感が強く現れる時、私はこの、猫とチーズと蓋のくだりを思い出す。

私の硝子戸は、相当分厚いらしい。光が屈折するくらいには分厚い。大丈夫、だから容易には割ることはできない。


浅岡忍 HOMEMAIL

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