ささやかな日々

DiaryINDEXpastwill HOME


2022年04月16日(土) 
2時間ほど横になったものの、眠れない。諦めて床を離れる。過覚醒だ。今日は加害者プログラムだった。被害者として被害と被害その後を少しばかり話してきた。過覚醒はそのせい、だ。
ふと思う。加害者らは、きっと、今夜のこの過覚醒で眠れないことも知らないのだと。知らないということはなんて都合のいいことなんだろう。なんて無責任なんだろう。おまえらがつけた傷のせいでこんなに痛んで、こんなにいまだ傷を引きずって生きていかなければならない被害者の現実を、どうして知らないまま君らは生きていけるのだろう。
加害者は被害者の被害と被害その後を知らなさすぎる。逮捕後、加害者が被害者と接触する機会はほとんどない。被害者のために、というのが建前らしいが、本当にそうだろうか? そのせいで被害者の被害や被害その後を、彼らはまったく知らないままでいられる。知らないまま社会に解き放たれるか刑務所に行くかどちらかは知らないが、どちらにしたって、そんな、知らないままだったら、問題行動を再び繰り返すのも時間の問題に違いない。いくらだって繰り返せる。彼らの認知の歪みは半端じゃない。
うわべだけの謝罪も反省も要らない。そんなもの飯の足しにもなりやしない。そんなものじゃなく。二度と繰り返さないでいられるだけの更生を、その道を、しかと歩み出し、そして死ぬ迄歩んでほしい。
もうこれ以上、自分たちの様な被害者を、増やさないでいただきたい。

今日はOFのクリニックの更生プログラム参加初回だった。小規模の、かつ、時間が一時間ではなく一時間半のプログラム。ありがたいと思ったが、一時間半なんて本当にあっという間に過ぎてしまった。充分には語りきれなかった。まだ私の言語化能力が足りていないなあと痛感させられた。
被害について、被害後について語る難しさ。語れば語る程、言葉が逃げてゆく気がする。いや、自分が逃げてゆく気がする。多分、語りながら半ば解離しているのだろうなと思う。だから必死に、自分を繋ぎとめようと努力はするのだが。なかなかこれが難しい。
語り乍ら、彼らの表情を見ながら、気づくことが幾つも。ああ、このひとは自分の加害行為をまだちっとも「我が事」にしていないな、とか、このひとは意見する最初に反省という牽制を入れるけれども実際はちっともそう思っていないな、とか、このひとはちゃんと自分の為したことを「我が事」にしてくれているな、とか。たくさんのことに気づかされる。
そして、私は姿勢を立て直す。何故なら、彼らは被害者を警戒しつつ、同時に、懐柔しようともするからだ。ちっとも己のしたことを「我が事」にしていない人たち程、わかったふり、反省したふりが上手だったりする。そして無意識に自分のその「ふり」を、こちらに押し付けて来る。こちらをコントロールしようとしにかかる。
認知の歪みというものは本当に恐ろしい。自分がそう振る舞っていることさえ自覚できないのだから。

知ることは大事だ。知らなければ、気づくこともない。考えることもない。省みることもない。まず知る。その為には、自分の扉を開けなければならない。自分の扉を開けないままでは知ることもできない。もちろん、知ったことを血肉にするには、知っただけでは済まない。
知ったことを己の血肉にまで降ろし、おのずと行為できるまでになるには、長い長い道程が要る。
だから。知らないことをまず、自覚しなければと思う。知らないということを知らないままで終わらせてはならないと思う。自分が何を知らないのかに気づき、知らないことを知らないままで終わらせない努力をする。知り、そして、それを噛んで噛んで噛んで、己の血肉にするために。行為できるほどになるために。

それが、繰り返しを止める術なんじゃないか、と。そう思う。


浅岡忍 HOMEMAIL

My追加