| 2021年11月14日(日) |
当たり前だが、誰もが等しく死ぬ。いずれ誰もが死ぬ。命は有限だ。 つまり、被害者である私もいずれ死ぬし、加害者も死ぬ。いずれ、誰もが死ぬ。病気かもしれないし事故であっけなく死ぬのかもしれないし、どう死ぬのかなんて選べないし分からない。でも、誰もが死ぬというその一点は、命ある者に等しく言えること、だ。
でも。昨日、MMアーツのMさんが亡くなったことを知って。芋づる式に加害者を思い出して、ぞっとしたんだ。奴も死ぬのか、いや、もうすでに死んでるかもしれないのだ、というそのことに。心底ぞっとしたんだ。 罪を罪とも思わぬまま、奴は死ぬのか。 罪を償うということさえせず、奴は死ぬのか。 まるで自分の方が被害者であるかのような顔をして、死んでゆくのか、いや、もうすでに死んでいるかもしれない。 そう思ったら、たまらなくぞっとしたんだ。
よく、加害者を死刑にしてやりたい、と言うひとがいるけれど。私は違う。死刑なんてあっけない死に方させてやりたくない。そう思い続けてきた。生きて在る限りのたうちまわれ、とどこかで思っていたのかもしれない。自分の罪という綿で少しずつ少しずつ呼吸を失って、そうしてじわじわと死んでゆけ、とくらいに思っていたのかもしれない。今となってはわからないけれども。 でも、あっけない死に方で楽にさせてやりたくなんてない、とは、確かに思っていたんだ。私は。 だから、奴がすでに死んでいるかもしれないと想像した途端、迸る思いがあったんだ。そんなの赦せない、そんなの嫌だ、って。
私は。何度自分を消去しようと試みて、そのたび失敗して生き残ることをさせられてきてしまった。生き残らさせられた、という感覚が、今もまだ、拭い切れないでいる。自ら選んで生きてきたわけでなく、生き残ることをさせられた、というそういうところ。 でも。 もし加害者が病死やら事故死やらで、あっけなくこの世から消えていたとして。そんな呆気ない死に方で奴が消えていたとして。私はこの後味の悪い思いをどう抱えていけばいいのだ、と、途方に暮れてしまったのだ。
死=ある種の救い。ずっとそう思っていた。 でもその救いは私には当時ちっとも訪れてくれず、今に至る。今となっては、生き延びてよかったと思っては、いる。それでも。 私に訪れなかった救いが、加害者には訪れる、というその構図に、私は吐き気を覚えたんだ。 そして。 そんな自分に気づいてしまった時、私はそんな自分に愕然としたんだ。
何やってんだろうなあ自分。もう、ここまでくると笑うしかない。こんなどうしようもない自分だったか、と、改めて思い知らされる。馬鹿だ自分は。正真正銘の馬鹿だ。もう自己嫌悪なんてもんじゃない、声に出して笑い飛ばすほか、術がないくらいの、救いようのない馬鹿だ。
いっそここで死んでやろうか、と思うくらい、自分が嫌いだ。でも、私は死ねない。もはや死ねない。私が死んだら、私より先に逝った友人たちのことを誰が覚えているというのだ。もう私は、死ねないところに来てしまった。 だから。 生きよう。もう、生き残ることをさせられたんでも何でもいい。そんなところ、もはやどうだっていい。させられたんだろうと何だろうと、それでも今生きてここに在ることに変わりはなく。だから。 私は生きよう。ここから生きよう。死が私を迎えに来るその日まで、精いっぱい生きよう。生きて生きて生きて、これでもかってほど生きて、笑って死ぬんだ。 加害者が死のうと生きようと、今ここの私にもはや関係はないのだ。過去の亡霊に引きずられちゃいけない。私は今ここに在る。今ここを生きてる。
世界は。 いつだって扉を開いてそこに在る。私がその開いている扉に気づくかどうか、なのだ。だからとにかく今は手を伸ばそう。手を伸ばして、信じよう。そこに扉があることを。 そうだ、世界は美しい。 世界はもっと、美しい。 |
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