| 2021年05月12日(水) |
昨日は掛井五郎先生の展示へCちゃんと伺う。千鳥ヶ淵の小さなギャラリー。先生のアトリエの品々や作品、そして言葉が、静かで密やかな空間にしんしんと並んでいるのが印象的だった。私達以外誰もいなくて、だからゆっくり堪能することができた。Cちゃんは、現代作家って苦手なんです、過去の作家の模倣に思えて、と遠慮なく言っていた。確かにそうなのかもなあと思うが、じゃあ模倣でないまったくのオリジナルって、あり得るんだろうかと私などは考えてしまう。 鼻の長い顔、という作品だったか、欲しい!と思って見たら売約済の赤いシールがぺたりと貼ってあり。がっくり肩を落とした次第。欲しかったな、あの作品。 それから、飾ってあった版画集「夜の絵」、あの語りはシェル・シルヴァスタインの絵本「おおきな木」を彷彿とさせるものだった。とてもじゃないが手の届かない額で手元に置くなんてできないけれど、展示で全てを通して見ることが叶って、それだけでも嬉しい。余談だが、私はあの絵本のエンディングに納得がいかなくて、昔々、続編を独りこっそり作ったのだった。小さな冊子に手書きの絵を添えて。懐かしいなあ。そんなことも、掛井五郎先生の展示を拝見しながらつらつらと思い出した。そんなふうに幼少期のあれこれを心地よく思い出させるのも先生の作品の力。 あまりにもこの社会が冷たくて凄惨としていて、だからそんな時に先生の作品に直接触れることができて、本当によかった。私は先生の作品が好きだ。こんなにも残酷でちっぽけな「人間」なんて糞くらえだけれど、それでも、と思わせてくれる。人間として生まれたからにはそれでも、と。 先生が、生き残ったからには自分が兄さんの遺志を継いで絵描きに、と思ったのが、木内克との出会いで彫刻家を目指すことになったのだと昔語って聞かせてくれたのがつい昨日のことのように思い出される。生き残った自分にできることを、と。生き残る、という言葉、今ならすごくよく分かる。もちろん、私なりにでしかないけれども。 先生は戦争から生き残り、私は被害体験から生き残り。それぞれ違う生き残りだけれど。それでも。 Cちゃんにも話したのだけれど。現存作家を応援するって大事な営みだと私は思っている。物故作家は、もちろん素晴らしい作家だからこそ残ってゆくのだろう。でも、現存作家の作品を購入し応援すること、これは、同時代に生きて在るからこそできることなんだと私は思っている。だから、寂しいお財布事情はあるが、それでも私は応援してしまうのだ。
今日は天気が悪いわけではないのに、身体のあちこちが痛む。特に左骨盤と腹部と脚。要するに左側の腰から下。別に何処か傷めたわけでもないのに。困ったな。テニスボールでせっせとケアしているのに痛みの強さに追いついてゆかない。薬を飲もうかどうしようか、さっきから悩んでいる。 受刑者さんから手紙が届く。相変わらず丁寧な、美しい整った字の手紙。手紙を書く時間は限られているはずなのに、彼の字が乱れたことは一度もない。そのことの方が実は私は心配だったりする。展示が終わるまで返事は要りません、と書かれていたのだけれど、もう早速書きたいことがあれこれ浮かんできてこれまた困っている。 うん、飲もう薬。これ以上痛みが強くなったらとてもじゃないが座っていられない。飲もう。 そんな私の傍らで、夜はしんしんと更けゆく。 |
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