ささやかな日々 / 浅岡忍

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2020年04月29日(水) 
早起きの息子と一緒に朝から土いじり。朝顔の種を蒔く。息子は息子が去年学校で育てて採った朝顔の種を、私は今年買ってみた「水月」と「宵の月」という青系の朝顔の種をそれぞれに。「ちゃんと咲きますように!」と言いながら一個ずつ埋めてゆく息子の隣で、私は黙々と埋める。「深さは一センチくらいだからね!」と息子に声をかけながら。
あっという間に終わってしまい、ふたりともちょっとエネルギーが余ってしまっていて、何する?なんて言い合いながら部屋へ戻る。とりあえずウノでもやるか、ということでテーブルにカードを広げる。最近息子が勝てるようになって、それが嬉しいらしい。嬉々とした表情でカードを凝視している。その様子が面白くて私も真似をする。

休校が始まってもう二か月になろうとしている。本来なら新学期。新しい友達ができたり、クラス替えで別れてしまった友達が恋しくなったり、あれやこれや忙しい時期のはず。なのに、今はどうだろう。公園の遊具は使用禁止にされ、声をあげて笑ったりしていれば学校に苦情の電話が入って注意され、子どもの居場所はことごとく潰されている。声を上げられない、上げることをまだしらない弱い者たちはどんどん追いやられる。こんなことあってはならないとつくづく思う。でも、これはおかしいだろ、と声を上げると、今度は、隣人が見張り役のようになっていていらぬところで衝突を起こされる。隣人同士見張り合っているこの現状が何より私にはおかしく感じられる。間違っていると感じられる。同じことはしたくない、とつくづく思う。

受刑者さんから手紙が二通続けて届く。刑務所内でもコロナの影響は色濃く出始めており。明日から作業場も閉められてしまうらしい。そうすると手紙も出してもらえなくなるらしく「当分お手紙できませんが、どうかお元気でいてください」と手紙が結ばれている。私は何となしに空を仰ぎながら、手紙を書いて出す自由のない生活、というのを想像してみる。自由って、何だろう。

法は、ひとを守るためにあるのではなく、裁くためにあるのだ、と家人が言っていた。最近本当にそうなのだなと実感することばかりが起こる。

コロナがもし落ち着いてきても、一度こうなった人々の心がもとに戻ることなんてあるんだろうか。見張り合うこと、に慣れてしまったら、もうそうでないところに戻ることはなかなかないような気がしている。

私たちはどんどん、自ら生きづらい方向に進んでいる気がしてならない。


浅岡忍 HOMEMAIL

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