ささやかな日々 / 浅岡忍

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2020年04月21日(火) 
朝のうちどんよりと空を覆っていた雲が、少しずつ少しずつ消えてゆく。私はせっせと布団を干し洗濯機を廻し犬の寝床を掃除する。寝床を掃除している間彼(犬)は神妙な顔つきでお座りをし、私の作業が終わるのを今か今かと待っている。終わったよと告げると飛んできて、ほっとした顔で丸くなる。お前は本当に寝床が好きだね、と私は彼に声をかける。
息子を連れてスーパーをはしご。肉を買うスーパー、珈琲を買う店、野菜を買う店、みんなそれぞれ違うから、息子と私と自転車を連ねて次々廻る。幸運なことに最後のスーパーでトイレットペーパーに出会う。よかったねと息子と目配せしながら買い込む。レジにはみな、透明なビニールシートが上からコロナ予防として吊り下げられており、何だかどこか違う星に来たような変な気持ちになる。これが日常になってしまう前に終わりがくればいいのだけれども。

家人に展示の話をすると、急に眉をしかめて、今そういう行動を起こすと激しく非難されるかもしれないからくれぐれも気を付けて、と言われる。せめて展示開始時期を少し遅らせた方がいいんじゃないか、とも。
考えてもみなかった。世間はそんなふうにまでなっているのか、と、改めて呆然となる。正直、そういう非難批判はあまり気にしないけれど、家人が心配してくれるのは分かるので、先方と話し合ってみようと思う。

ひとはいずれ死ぬ。誰もが死ぬ。誰にも等しくいずれ死はやってくる。それがどういう形であれ。
癌で死ぬひともいれば、コロナで死ぬひともいる。交通事故で死ぬひともいれば、自ら命を絶つひともあろう。そのどれが良くて、どれが悪い、なんてことは、あり得ない。どれも等しく「死」だ。
あの日から生き延びてくる過程で、私はたぶん、死に対して準備ができてしまった。ふつうより早くその準備を済ませてしまっているのかもしれない。自分ではまだまだと思っていたけれど、今回こういう状況に陥って、情報に右往左往しあちこちから上がる悲鳴を見つめていて、思う。こうした「非日常」が、自分にはむしろ当たり前だったなあ、と。それまでの日常があの日木端微塵になった。以来非日常でもある「日常」を生きてきた、生き延びてきた。そういう過程で私はたぶん、当たり前など何一つこの世界には存在しないと、痛感しているのだ。昨日まであったものが今日もあるとは限らない。今日できたことが明日もできるとは限らない―――。
二十四時間三百六十五日危機であるというふうに脳が書き換えられてしまった人間は、こんな時、耐性があるのかもしれないなあ、なんて、しみじみ思ってしまう。
全然嬉しくないけれど。
唯一あるのは。自分が加害者側になってしまうかもしれない、というそのことへの危機感。

明日も淡々と、自分に誠実に生きよう。


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