index |past |will
しばらく冬籠りをさせていただきます。 みなさま良いお年をお迎えください。 nadja.
2008年12月28日(日)
物権の排他性について
「なるほど、あるところにはあるのだな。したがって、ないところにはないのだな、と思ったしだい。」(森博嗣 『気さくなお人形、19歳』) あなたがそれを持っているからわたしはそれを持っていないのです。あなたとわたしが同時にそれを持っていることはできません。わたしがそれを持っていないからこそ、あなたがそれを持っていられるのだということを、どうぞお忘れなく。
だれかと一緒にいることに痛みしか覚えないので、親の顔さえみるのがつらく、猫に会いにいくことすらできない。会社では笑っている。声まで笑っているらしい。それではまだ足りず、丸いボタンを、と言っては両手で丸い形をつくってみたり、10センチくらいの、と言っては10センチくらいのものを挟んでいるように親指と人差し指を広げてみたりしている。非常に可笑しい。夜という夜は昼間の自分を罵倒することに費やされている。
さらに冷え込んだ今日、凍るアスファルトの上で仔猫が足踏みをする。毛布が足りないわけではないのに、ごはんが足りないわけでもないのに。針のような冷たさを踏む薄い靴底が悲鳴を上げる。
朝から凍えるような小雨が降る。まるで彼女の葬儀の日のような。足元からつたってくる冷たさはやがて、あれほどに美しい人が、にぎやかな窓を見下ろす高層マンションでひとり腐っていくことの耐えがたい痛ましさとなって、身体の芯を凍らせる。人はいったいどれだけ孤独になれば気が済むのだろう。 こんやあめはつめたい
2008年12月24日(水)
you can carry me home
そして今年も、一緒にいたいと思う人がここにはいない、という傲慢を裁かれるために膝を折り、頭を垂れる。
2008年12月23日(火)
tell me what was wrong with me
11月4日に植えたチューリップの球根が、やっと芽を出した。2ミリにも満たないような小さな芽が、これほど純粋に掛け値なしの喜びをもたらしてくれることに驚きを覚える。生き方を間違えているような気がしてならない。
あんまり無理に笑うと、本当に顔が引き攣るのだ、ということを、忘年会にて身をもって知る。やれやれ、最終電車にようやく乗った、と思ったら、バッグの中で騒ぎ出す携帯電話が朝までわたしを帰してくれない。偏頭痛が帰りたいと訴えかけてくるのをイブプロフェンで黙らせて、次から次へ正論だけを吐きながら、煙草と一緒に時間が灰になっていくのを眺めた。わたしが本当に、話したいと思う人は、ここにはいない。
そのうえ、意味の分からないものを無条件で有り難がる悪い癖がいくつになっても治らない。分からない、と言うことが怖い。そこで見捨てられる気がして。なんでも分かったふりをして、分かりやすいものは即座に否定する、それでは結局、身の回りにわけの分からないものばかりが残ってあたりまえじゃないか。
2008年12月20日(土)
i don't need a support system
同じ大学で学んだということは、なにかそれとは別の意味を持つものなのだろうか。校友会に顔を出してみるといい、必ず誰かが助けてくれる、今日そんなアドバイスを受けた。ぱくぱくとよく動く口をぼんやり眺めながら、i don't need a support system、と歌うLiz Phairの不遜な声が頭の中でぐるぐると流れはじめ、いつか役にたつかもしれないから、なんていう打算に基づいて「つなぎ」をとっておこうだなんて、ずいぶん卑怯なやり方じゃないか、とか、利用することを前提としたつきあいだなんていやらしいわ、とか、言いたくてたまらなくなってきたので、酔っぱらわないうちに早めに帰る。社会性の欠如を、潔癖さにすり替えていい気になってるだけ?
2008年12月19日(金)
i do not want what i haven't got
そもそも急速にしぼんでいく世界で、今以上の「規模拡大」「販路拡大」などといつまでも甘い夢を貪ろうとすることのほうがよっぽど時代に逆行している。もうわたしの手のひらはいっぱいで、わたしの口は溢れている。Sinéad O'Connor が「i do not want what i haven't got」と透き通った声で歌ったのは18年も前のこと。過剰すぎる時代が、ようやく終わる。
会社では売るの売らないの、といった欲の深い話が色の濃さを増している。経済活動に積極的に参加することには舌の干上がる想いがするので白々と話を聞き流し、営業要員ではありませんから、と整理解雇の方向へ丁重に首を差し出しておく。より簡単でより便利な世界など毛の先ほども望んでいない。鼻先でニンジンを揺さぶられても無理なものは無理。
2008年12月17日(水)
tenderness sells
12月に入ってからずっと会社を休んでいたので足の裏が鈍っていたのか、ヒールで歩き回ったらまめができた。一足ごとに痛む足で、カードとプレゼントを選ぶため、あちらこちらへ。 そうすることで、わたしはやさしさを買っている。 ちいさなちいさなやさしさを。
2008年12月16日(火)
i ain't the one to blame
結局わたしのところで澱むのだ、でもだからってall apologiesを歌ったりなんかしない。 おまえのことは、すべておまえのせいであり、 わたしのことも、すべてわたしのせいである。 おまえのことは、すべてわたしのせいでなく、 わたしのことも、すべておまえのせいでない。
2008年12月15日(月)
i have no weight
わたしは、かみさまなんかじゃない、 かみさまなんかに、なれない。 ひとがくるっていくさまを もうにどとみたくないとおもっていた。 かみさまはひとをくるわせる。 わたしは、かみさまなんかじゃない、 かみさまなんかに、なりたくない。
2008年12月14日(日)
can you, can you forgive me
ほんとうに欲しいものは角砂糖くらいの大きさのやさしさで、それさえあれば、わたしはきっと世界を愛するだろう。
楽になろうとして、物語に仕立ててみようともした。けれど、おまえは巧みに言語化の罠をすり抜けていく。どうだ、書けまい、と、酔いつぶれたおまえが嘲笑っているようで、躍起になってキーをたたけばたたくほど、それはおまえに似ないものになっていく。 いまいましいとは、こういう感情のことをいうのだろう。
2008年12月12日(金)
mirror, mirror
話があるんだ、と言われて、生ゴミを頭からぶちまけられる想像をする。 いっそ、君を汚していいだろうか、と、端的に聞いてくれればいいのに。 いやだとは言わないから。 満月を見上げながら、自虐的な気分で、きみに会いに行く。 で、それで、わたしの話はいったい誰が聞いてくれるのだろう?
2008年12月11日(木)
and the older i become
おまえから取り返したわたしの半身はまだ少女のような姿をしていて、無邪気に傷ついたり泣いたりするから鬱陶しい。こんなに脆く壊れやすいものをわたしだと思っておまえは、幻想を紡いできたわけだ。わたしはおまえの半身などとっくに殺した。殺したはずのおまえが今さら、醜い姿で蘇るから、こんなに苛立つ。アドレッセンスに復讐されるいわれはない。
「外へは血も肉もこぼれなくても、中身は壊れてしまっているんですね。繋ぐことも、繕うことも、塞ぐことも、貼り合わせることも、縫合せることもできないくらい、完全に壊れてしまっているんです。」(多和田葉子 『ゴットハルト鉄道』) 99個のなんでもないと、たった1個のなんでもなくないが、せめぎ合いをしている。それらが可視的な形をとって、わたしという身体を構成している。
2008年12月09日(火)
no mercy for she
堕ちた偶像ならば海に沈め。
2008年12月08日(月)
to talk to you
どうしてこんなにメロドラマに似ているのだろう。 分かった分かった、言ってることは分かったから、その通りにすればいいじゃない、私には関係のないこと、目ざわりだから消えて。 私はそう言いたかった。ほかにどんな言葉もなかった。 どうせ皆、自分の思うようにしか生きないし、死なない。
2008年12月07日(日)
those were the days
そしてまた破壊者があらわれる。まさかおまえを見損なうとは、馬鹿馬鹿しくて涙も出ない。好きなだけ壊せばいい。いくらでも、いくらでも壊せばいい。守りたい昨日なんてどこにもない。今さらおまえが私の首に手をかけたって、何も思わない。私はそっと目を閉じて、おまえの明日を憐れむだろう。
はじめから分かっていたこと。分かっているふりをしていたこと。あらかじめ、どんな傷も、周到に縫い塞いである。凍るような沈黙に向って投げた言葉が虚空に谺する。それでいい。
絶望的に咳が止まらず、外は冷たい雨が降り続いた今日、買い物に出る気などまったくしないので買い置きのおかゆを食べてひとりけほけほと背中を丸めていたときに、冷蔵庫にひとつだけ、ラ・フランスが転がっていたのを思い出し、皮を剥いて食べた。 青りんごみたいな、あまずっぱい味がした。熱っぽい口のなかにひんやりしたさわやかな味が広がっていくのはとても気持ちが良かった。 みずみずしい果実の味は、いつもいつも幸せに似ている。桜桃の味、なんて映画も、昔あったね。とてもいい映画だった。暖かくて、哀しくて。
今から7年ほど前、私はひどい神経衰弱に陥っていて、それからだいたい3年余の間、一冊の本も読めなかった。だから今はこうして毎日、読みたい本を読めることがとてもうれしい。『月と六ペンス』はあのころの自分に読ませてやりたい本だった。私には六ペンスがお似合いだっただろうに、あとほんの少し、努力が足りなかったばっかりに、いまだこうしてからっぽの手で、ぼんやり月をみている。
濁った音の咳ばかり出て満足に呼吸もできない。たまらない鬱陶しさである。こんなときに限って鬱陶しいことばかり思い出す。おまけに身体十遺体、って何これ! 何このとんでもない変換は! ああ、もう、鬱陶しい!
眠っているのか、起きているのか、読んでいるのか、それともぼんやりと空想しているのか、ベッドのなかではすべての境界が曖昧になっていて、昨日に続いて奇妙な物語が量産され続けている。おかげで熱は下がらず、ひどい悪寒が止まらない。
眠ったら眠ったで物語の続きの世界に迷い込んでしまってうなされる。まだ読んでいないはずのページを夢のなかで読んで、とうていありそうにない筋書きに物語を書き換えてしまう。もしかしたらそれは私が実際に見た光景であったのか、それとも何か別の本で読んだのか、たくさんの断片が夢のなかで錯綜し、発熱する。睡眠が休息たりえない。