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2008年11月30日(日) |
もう眠ってしまったほうが |
そして私の世界は日増しに暗くなり、寒くなっていく。可能性の死骸が、マリンスノーのように降り積もる。もう、話すことなんて何もないんじゃないだろうか? 無力な言葉を引きずりまわして疲れきってしまうより、もう眠ってしまったほうが? ここは静かで、とても蒼い。
そして石のような心を前に立ちすくむ。もう、何を言ったところで、何をしたところで、その心には届かない、その心の表面に傷をつけることすらできない。あなたはあなただけの言葉で完結してしまい、ひとの言葉を理解しようとしない。昨日のことですら忘れてしまう。
自分の言葉に閉じ込められて、あなたはひとり老いていく。それはどれほどの孤独だろう。壁は日増しに分厚くなっていくばかり。
2008年11月28日(金) |
キャッチボールもできない |
どうにもうまく会話が成立しないことに対して朝から特大の溜息を3つほど漏らし机に突っ伏す。ひとつを聞いたらひとつを返し、返されたほうはその反応に応じてまたひとつを投げてよこす、それが会話の在り方のはずだが、ひとつを聞いたら十の言葉がなんの脈絡もなくあちらこちらに飛んで行き、こちらはそのファールボールを拾うことに疲れ果ててしまって、もう何も返したくないと思う、そんなことを何度繰り返しても、的外れな言葉は散弾銃のように降り注ぐ。
私がキャッチャーの素質を欠いているだけのことか。
そんな話は聞きたくもない、というならいったい、どんな話なら聞きたいというのだろう。
どうせならたった一発のライフル銃で心臓を貫かれたい。
なのに今日も街へ出る。ファンデーションを買いに。だいたい化粧品ほど選択の基準があいまいな品もない。誰かがいいって言ったから(その意味で@コスメというサイトは非常にうまくやっている)、ポスターの女優がきれいだったから、BAがちょうどタイミングよく話しかけてきたから、たまたまもらったサンプルが良かったから、などなど、たんなる気分、きっかけの問題だ。おまけにそれが本当に自分にあっているのかどうかなんて永遠に分からない。いいと思えばいいし、ダメだと思えばダメなんだろう。だから呼びかけや、お勧めには、気軽にえいっ、とのってみる。迷わずさらりと、だまされてみる。
だってもう、選ぶなんて、不可能だもの。
もう街はいい、疲れる。人もモノも多すぎて、選べない。
平日の昼間に、ひとりでふわふわと漂っている。たぶん何も悪いことはしていないはずなのに、いつも、どんなときも、皮膚の内側でひりひりと存在を主張する罪悪感がある。
つきささるような視線を、ひとつずつ縫い閉じる。
鈍感さと図太さと。
2008年11月24日(月) |
せめて…でないように |
せめて「きれいさ」を保つための不断の努力。せめて不快でないように、せっせと窓を磨き床を磨き鏡を磨く。そんなことをしているうちに時間は飛ぶように過ぎ去って、私は退屈を忘れていられる。せめて…でないように、という消極的な意味づけだけが、いまだどうにか私を動かす。
しかし飛べる筈のない空、だ。そんなことはみんな分かっている。
どうでもいいことをどうでもよくないように、さも面白そうに感嘆してみせて、へえ、そうなの、わあ、すごいねと、穏やかににこにこと笑いながら、せめて少しでも楽しそうに見えるように、時には小さく踊ってみたり、スキップをしてみたりね。
いつそのふりがばれるのかに怯えながら、今日も、明日も。
ちょっとしたきっかけで血が滲みだす古傷のようなものをどうすることもできず。いつになったら癒えるのか。何年経っても左腕の形を損なっている肉腫に刃先30度のカッターナイフを突き立てたならさぞ気持ちよく鮮血が噴き出すだろう、憐憫の血を全身に浴びて踊るのも悪くない、そのくらいは十分に退屈している。
もちろん、私は、貴方なしの生に耐えられる。人は何を失ったって生きていける。呼吸が続く限り、心臓が波打つ限り、どうしようもない退屈をやりすごしながら、恥ずべき生を引きずっていくことくらいできる。けれどいったいあと何年、何十年、こんなことが続くの、こんな、ただあきらめ続ける、ただ弁解し続けるだけの色のない生が、いったいあとどのくらい続くの、
空を飛ぶための、必要十分条件とは何か。
とはいえ貴方は『カラマーゾフ』なんて長ったらしくて読んでられないよ、と言い放ったのだった。あんなのは暇な人間が読むものだ、と言わんばかりに貴方の部屋にはルポルタージュやノンフィクションが積み上げられていた。だからこそ良かったのかもしれない。貴方は味気ないほどに実際的で、私は馬鹿みたいに観念的だった。
観念的な人間がふたりでいたってどこにも行けやしない。
『蒼ざめた馬』を再読中。昔からけっこう露文学が好き。『カラマーゾフ』を読んでいない人とは友達になれない気がする。大昔、告白された男の子にそういうことを書き送ったらそれっきり返事が来なくなった。でもねえ、スメルジャコフ的な、という言い回しが通じない人となんて、私、一緒にいても楽しくないわ。キリーロフが分からない人もロカンタンが分からない人も無理。ナジャが分からない人なんてまるで論外。
…なんてね。
今でもときどき言ってみたくなる。
ああなんて退屈で、馬鹿な女なのだろうか、と殊勝な反省をしてみるのだけれど、今更どこをどう繕えばいいのか、皆目見当がつかない。あっちにふらふらこっちにふらふら、その場その場でカメレオンのように色を変え、へらへらふわふわ。
幸福の無数の断片をまき散らす人。昔からずっとそう。ありそうもない世界のことを、きらきらとした言葉で、エレガントに語ってみせる人。あなたが話をするときはいつだって空が青い。今日だって、朝方はあんなに曇っていたのに、おそらくあなたがこちらに着いたであろう頃、やわらかな日差しが部屋のなかまでさしこんできた。それで私は重い腰を上げることができたのだけれど。
今の私にはその幸福の無数の断片が、能天気なものに見えてしかたない。かつてあれほど、痛いほどに強烈に、憧れたはずのものでさえ、次第に遠く、蒼褪めていく。
出会うはずのない人々、交わされるはずのない言葉が、猛スピードでぶつかり合う時代。想像力が擦り切れていく。私は疲れている。
頭の悪さは想像力の貧しさに比例する。その言葉、そのふるまいの行く末を、案じることのできない人。可哀想に、可哀想に。
このような存在は非常に恥ずかしい。暗く、重く、沈んだ存在は。人目に触れさせるべきでない。ましてや土曜、賑やかな笑い声に囲まれて、両目の奥が凍っていくような厳しさを、まきちらすべきでない。だからさっさと家に帰る、そうしてそのまま、誰にも会わない。
満足していいのに。放心していいのに。安息の方法すら知らないとは我ながら呆れる。自分ではじめたゲームが終わったときに、自分で御苦労さま、と言ってやらなくてどうする。疲れ切った身体を鞭打ってみたところで動くわけがないのに、無力感に苛まれるなんて身体に対して失礼な話、何もしたくない、と愛想を尽かされるのも当然だ。
溜息でしか感情を表現できない。私はあなたに言葉を使い尽くしたし、あなたは言葉を忘れはじめた。だからもう、幸せなことしか思い出さないでいいように、あなたには会わないことにしよう。あなたのために、私のために、あなたと私の、思い出のために。
許されない、認められない、受け入れられない、それらを全部、許されたい、認められたい、受け入れられたい、に置き換えることはできないか。たった一文字、「な」と「た」が違うだけじゃないか。私はいつも、「た」を迂回して「な」に向かい、そうして無駄な努力を強いられる。
今したいことがあるか、と問われたら3か月かそこら朝から晩までぶっ通しで本を読み続けたい、と答える。何にも誰にも気兼ねせず、読んで読んで読みまくりたい。世の中の動きから完全に自分を切り離して、文字の洪水のなかで溺れてみたい。「引退」してからでは遅い、いま、この年齢で、この状態で、この感性をもっているうちにそれをやりたい。
というのは自分しか読まない日記に書いたことなのだけれど、どうやら自分に対してさえも遠慮しているようだ。はっきり書けばいいのに、本当は、大学院に戻りたいんだ、って。
2008年11月10日(月) |
up your alley |
否定的な感情だけを原動力にしているのだから、愛せそうにないものを背負うときこそしっかり強く立てるだろう。それが正しいかどうかはまた別の話。とにかく、立たねば。
配達記録で新しい背骨が届けられる。封筒から出し、しみじみと眺めてみて慄然とする。本当に、こんなものが、私の新しい背骨になるのか。本当に、こんなものを、背負えるのか。厚生労働大臣の署名と印が押されたその背骨は、たしかにつるんとしていて強そうで、迷いがなさそうに見える。今年のはじめに送られてきて、そのまま本棚にしまってあるもう1本の背骨とあわせれば、さぞかし立派な背骨になることだろう。けれど、私はこの無骨で、無粋で、融通が利かなさそうな背骨を愛せそうにない。それにそもそも、似合いそうにない。
今頃私の盗まれた背骨は、どこかの古書店の片隅で寂しそうにしているのではないだろうか。探しにいってやらなければ、どんなにたいした背骨でなかったとしても、私はあの背骨を愛していたのだ、不器用で、感情的で、メランコリックで、頼りなく脆いあの背骨。
ああ、けれどもう、手遅れなのか。それとももう、潮時なのか。
今夜は背中が疼くようだ。
背骨をうしなった身体は重い。ベッドに沈みこんだ肉を持ち上げることができずにまた遅刻する。ぐにゃりぐにゃりとしまりのない言い訳をして、だらりと弛緩したまま時計の針をぼんやり眺める。もう私には自分を救うことなんてできないよ、と誰かに言おうとしたら、なくした背骨のあった場所がずきりと痛んだ。
なにもしていない、をなにもできない、に置き換えたとたんに神経衰弱に陥る。盗まれたなら探すべきだ、新しい背骨を。どうせたいした背骨ではなかった。
とめどなくたるんでいく。ひろがっていく。押しとどめるすべがない。私はすでに傍観している。重力に敗北していく肉を。
「背伸びをしたってしんどいだけだよ」
彼の口から出た忠告のせいだったかもしれない。
ぐにゃぐにゃした肉の塊を紺色のスーツで念入りに包んでから会社へ行く。椅子からだらしなく垂れ下がり、こんなことになってしまって、といちおうは申し訳なさそうな顔をしてみるが、もしかしたらこのなかに私の背骨を盗んだ犯人がいるのかもしれないのだから、油断はできない。
背骨はどこへいってしまったのだろう。あれがなければ立ち上がることもできないというのに。今日もまた一日をはじめることができない。私の背骨を返して、と誰に言えばいいのだろう。身体を支えるということがこんなに大変なことだったなんて。
背後から突然背骨を盗まれてへなへなと座り込んでしまう。そうしてそのまま一日が終わってしまう。恐ろしいことだ。
「しかし、博士、わたしたちすべてが失いつつあるものは、まさしくこの時間なんです。時間が底をつこうとしている。わたしはそう感じるんですが、同感じゃありませんか」 (J・G・バラード 『結晶世界』)
そうね、本当に、この地球は末期症状にあるから、もう時間がないんでしょう。なのに私たちは無駄なことばかりしている。今日なんて、携帯電話に同じアドレスから14通もメールが届いた。なにかの規約に同意した人だけに送っているんだって。そんな同意、した覚えなんてないけれど、もしかしたらもう、この時代に生きている、っていうことじたいが、こういう馬鹿馬鹿しさに対して意に染まぬ同意を与えているってことなのかもしれない。
洋服屋のレジの前で、ケーキ屋の前で、居酒屋の前で、ずらりと並んだ行列は本当に豊かさを享受しているのだろうか。ああ、なんていやな時代なんだろう、安物くさくて、薄っぺらくて、欲ばかり深くて、押し付けがましくて。残り時間はわずかしかないのに、奪い合うばかりで、誰も手を繋ごうとしない。
だからせめて、あなたとは、こうして密やかに心を繋いでいましょう。これからどんどん、寒くなります。
こうして欲しいのだろう、こうしてあげたら喜ぶのだろう、と気づいていることの10分の1も実行していないが、それでも次第に私の存在がまた家のなかで重要性を増し始めている。そうならないように、10分の1以下のことしかしないできたのに、祖母の主治医とのやり取りは私にしかできず、母は私がいることで安心すると口にする、父はもう長いこと、私としか口をきかない。こうして欲しいのだろう、こうしてあげたら喜ぶのだろう、と気づいていることの正反対のことをする勇気がもてればよいのだけれど、さすがにそこまではできないでいる。それならもういっそ、気づいていることのすべてを実行し、輪の中央へ飛び込んで、完全に囲い込まれてしまったほうがましではないのか。少なくとも私以外の3人に幸せに似た感情を与えることくらいはできるだろう。その輪の中央で、次第に老いていく3人を見送ることが私の人生に課せられた義務だ、私の人生の唯一の意味だ、と納得してしまうことがどうしてできない?
三代続いた一人っ子長女の三代目なんてそんなもんよ、と頭では分かっていても、溜息が止まらない。
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