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2008年10月31日(金)   誰も知らない

いいこと、そうやって自分の牙で自分を噛んでいるとね、そのうち傷口が膿み爛れて、甘い毒が滲み出てくる。あなたはその毒がまわって死ぬ。ゆっくりと、けれど確実に。いつか遠い未来、自分の身体を自分で抱いた哀れな骨が発見される。それがあなたの運命。あなたの肉を噛み裂くほどの思いなど、誰も知る由がない。


2008年10月30日(木)   無粋な

本を読んでいる人に声をかける、という無粋な行為が許せないのだ。

私は岡本太郎の『青春ピカソ』を興味深く読んでいるところだった。そこへこちらに近づいてくる気配を感じる。もちろん顔をあげたりなんかしない。なのにその声は容赦なく降ってくる。「ご一緒してもいいかな」。

いいわけがない。私は本を読みたいのだ。お昼休みくらい、好きなようにさせてくれ。

「本を読んでいる人間には話しかけない」というのは不文律だと思っていた。けれどそうではないらしい。私は迷った。「ごめん、本を読みたいから」と言っていいものなのかどうか。それは社会的に許されるのかどうか。私の常識では本を読んでいる人の邪魔をするなんて許されないことだ。読書を中断してまでしなければならないような話なんかない。けれども今日の彼だけじゃない、毎朝地下鉄で会う彼女もそう、休憩室で声をかけてくる上の階の彼もそう。

迷ったあげくどうぞ、と言って本を閉じたことを夜になっても後悔している。


2008年10月29日(水)   完全なる受動性

…昨日の「透明なエクリチュール」はご覧いただけただろうか、何せとにかくマンガやゲームが持つ強烈な中毒性と破壊力を侮ってはいけないのだ、「解読する」「解釈する」「読み解く」というクッションを経ずに、内側へダイレクトに注ぎこまれるその作用。完膚無きまでに思考停止に追い込まれ、ただ次の展開を欲して取り憑かれたかのように頁を繰らされる。この完全なる受動性の、なんと口惜しいこと。


2008年10月28日(火)   一日が動き出しても

窓の外で鳥が啼きはじめ、隣の部屋の住人がテレビ番組に向って文句を言う声や、マンションの管理人がおはようございますと挨拶をする声、落ち葉を掃く箒の音が聞こえ、いつものように今日という一日が動き出しても、私は動かず、ベッドのなかで、一睡もしないまま、

……………マンガを読んでいました……。


2008年10月27日(月)   困難な時代

虚空に向かって叫んでいるつもりでも、その声はどこかで盗まれている。知られたくない感情を捨てることが、困難な時代だ。


2008年10月26日(日)   美しい結末など

もはや視線を交わすことさえためらわれるような、幽閉を強いられているとしても。理想もなければ志もない、強度のない生をさらしているとしても。

私はもう、死に向かう潔さも真剣さも、美学も哲学もすべてなくしてしまったから、私の頁は冗漫に続くだろう。物語となりうるような、美しい結末など、決して持つことはないだろう。そのことを成長、と呼ばざるを得ないのなら、まだ少しだけ、その醜さに耐える強さが足りない。


2008年10月25日(土)   RPG

前時代的なジェンダーのロールプレイを喪失して以来、我々は不幸だ。みなどのような自己を演ずるべきなのか分からず、唐突にゆだねられた決断、選択をもてあまし、脆いペルソナをこわごわ貼り付けてみても、自信のなさと不安げな表情を取り繕うことができない。

まやかしの「支配」と「服従」をちらつかせ、相手の出方を探り合う男も女もどこか悲しい。


2008年10月24日(金)   本を忘れる

ぼんやりしていてバッグの中に本を入れていくのを忘れた。携帯電話を忘れるよりも心もとない。防具であり、武器でもある、本、という小物を、私はどんな装飾品よりも大切にしているはずなのに。

活字に飢えている、というのとは少し違う。きっとひとつの境界線。それがなければ、差異を保っていられない、というような。


2008年10月23日(木)   どこか或る家

「家」を構成している3人の女がとても似ているということに気づいて軽い絶望を覚えた。3人が3人とも別のところに住んで勝手気ままに生きている、というのがうちの家の表面的な構図だが、実際は3人ともが「どこか或る家」に閉じ込められていて、互いの自由を奪い合っている。そんな家はどこにもないのだ。なのに3人ともが過剰にやさしい部分を持っているがゆえに、時折そんな家がぼんやりと幻影のように浮かびあがる。祖母と母と私を貫くこの致命的なやさしさが、私たちを損なっている。


2008年10月22日(水)   定立

見ていなさい。いいえ、見ていなくてもかまわないわ。
そこに、「在り」なさい。
あなたの気配として、あなたの残像として、あなたの痕跡として、つねに、そこに、「在り」なさい。
私はあなた抜きの生を、耐えてみせるから。

とっくに消失した視線を定立点として、私は私を削っていく。労いも慰めもなくていいと、絶叫しながら。


2008年10月21日(火)   濁った水

今年のはじめに言うべきであった言葉がお風呂のなかで次から次へとあふれだしてきて溺れそうになる。タイムラグがありすぎて、とっくに行き場がない。いつだってこうだ。もっとひどいときには何年も経ってから、何の脈絡もなく暴力的に現在の時間に割り込んできて、しばらくの間消えない腐敗臭と不快感を残してまた地下の水脈へ帰っていく。私の底を流れる水の、なんと濁っていることか。


2008年10月20日(月)   ラピスラズリ

「貴女は救われるべきである」。アンヌ=マリーの燃えるような、濡れた瞳はまるで欲望しているようだった。不幸と不運と罪に喘ぐ、愚かな、迷える魂を。格好の犠牲者となったテレーズ、「貴女こそは救われるべきである」。どうしてそんなことが可能だろう? 私の魂は死んでいるのに。傷ついたものならば癒すこともできよう、だが死んだものは?

その欲望に応えることのできない死んだ魂をもてあます。身体が余計だ。容れ物がまだ壊れていない。「無関心だけが私を救いうる」、テレーズは叫ぶ。放っておいて、ひとりにして。

ブレッソン『罪の天使たち』。良い映画であった。

***

死んだ魂はラピスラズリの色をしていよう。願わくばせめてこの余計な容れ物が、オオルリのように美しく啼かんことを。


2008年10月19日(日)   無関心

籠の中の鳥がちゅんちゅんと囀っているだけのことです、ときには夢も見るでしょう、ときには悲しくなるでしょう。けれどもどこにも行けないことを、彼女はよく知っていますから、あなたは彼女の囀りを、真に受けることなどないように。これでけっこう幸せなのです、あなたが無関心でいてくれさえするなら。


2008年10月18日(土)   籠の中の鳥は

「あなたは何を探しているのですか?」
「私は安らぎを求めているのです」
「あなたの両手は、血まみれだわ」
(イルゼ・アイヒンガー 『より大きな希望』)

二重に殺されることの恐怖。
書くことが自由をもたらすなんて嘘だ。

翼ある言葉という欺瞞。
籠の中の鳥にも翼はある。


2008年10月17日(金)   透明

完全に無力化された言葉がどこかにないだろうか。それこそ透明なエクリチュールだろうに。

白い紙に白い字を書くように。


2008年10月16日(木)   瞼の裏の

貧血はさらに牙をむく。耐える理由が見つからない。何も見つからない。瞼の裏の、鈍い黒。


2008年10月15日(水)   その手を

ひどい貧血で早退する。駅のホームで、階段で、坂道で、私を追い越していくおまえたち、おまえたちは何もできない、おまえたちは何もできない、と一歩ずつ、暗い河へと身体を引きずるようにして歩く。誰か、と口にしたそのときに、膝は折れる。その手を私は望まない。


2008年10月14日(火)   献身

献身は愛ではない。身勝手な自己犠牲である。だからそもそものはじめから、報われるものではない。けれどもだからこそせめて、物語のなかでだけは、慰めが欲しかったのだ。


2008年10月13日(月)   その背中

ベーカリーカフェは近所の出来のいい息子の話や病気の話、デパートの特産品売り場の話で満ちていた。低いざわめきに囲まれて、私は本を読む。それはとても幸せな時間である。香ばしいパンの匂いと珈琲の匂い。規則正しく繰られるページ。物語は飛ぶように進む。そろそろ佳境だ。

ひとりで本を読んでいる後ろ姿が侘しさを背負い込むようになるまであとどのくらいの猶予があるだろう。私はいつまでもこうしていたい。おしゃべりの渦には加わりたくない。そんなのは気の持ちようさ、とあなたは言うだろう、私だってそう思う。けれど、前の席にひとりで座っていた女性がトレイをもって席を立った時、その少し曲がった背中はとても疲れていた。目をそむけたくなるほどに。


2008年10月12日(日)   走る体

「あれはもう終わってるよ、とても可哀想な女だ」

というのが彼らの彼女に対する見方であるらしい。誰が何の権利に基づいてそんなことを、と詰ることはたやすいが、それでもその利己的で身勝手で残酷な視線の存在じたいを否定することまではできない。私は怯えている。いつかその言葉が私に向けられるときを。私は逃げる。全速力で逃げる。けれどいつまで走っていられるのだろう。そろそろ息切れがする。


2008年10月11日(土)   親愛なる隣人よ

一日にたかが数行のことであるのに、その数行の積み重ねが、ともすると24時間顔をつきあわせていることよりも雄弁になにごとかを語ってしまう、という状況のおそろしさに何年経っても慣れない。おお、わたしの親愛なる隣人よ、あなたがこの署名のもとに見出すもの、それはわたしでありわたしをはるかに超えたなにものかであり、又はわたしがわたし自身からも隠そうとするなにものかである。だから読み取ったものについて、あなたはどうか口を閉ざしていてほしい、それはわたしの望まぬなにものかだ。


2008年10月10日(金)   ル・クレジオに

「何ごとをも断念しないことだ。幸福をも、愛をも、怒りをも、知性をも。ためらってはいけない。快楽の中に快楽を、傲慢さの中に傲慢さを味わうことだ。」(ル・クレジオ 『物質的恍惚』)

この一文が好きだ。とても好きだ。なんの脈絡もなく、ただこの一文だけを切り離して、咀嚼するように繰り返すことが好きだ。私が普段書いていることのまるで対極にあるような、したたかな貪欲さ、力強い肯定、焼けつくような渇望、できることならば、こんな生を、選んでみたかった。


2008年10月09日(木)   私が私でしかないことの

「おれはときどき、ひとつの顔とひとつの名前、ひとつの機能とひとつの範疇にこだわる、あなたのような人間が哀れに思われることがある。あなたはその執拗な顔から絶対に逃れられない。統一性という観念が、つねに同一の人間であるという牢獄のなかに、あなたを閉じこめてしまっている。」(ホセ・ドノソ 『夜のみだらな鳥』)

「一度だけおこることは、一度もおこらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を生きうるとすれば、それはまったく生きなかったようなものなのである。」(ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』)

私は私から逃げ出したいと願う。もっと別の、もっと違う生き方が、あってしかるべきだと思う。けれどまたこうして言葉を重ねることで、私は私をより強固な統一性へと引き戻す。私が私でしかないことの悲しみ。


2008年10月08日(水)   大学前にて

このままで過去に目覚めたいのだ、できれば高等学校という、幸福のうちに囲い込まれた空間から投げ出された翌日の朝に。いつかその朝に目覚める日のために、私はすべての失敗の記録をつけておいた。だから大丈夫、今度こそ、完璧にやり直せる。

可能性は無限であった。なのに私は間違い続けた。

もう一度、この坂を毎日のぼりたいと、切に切に願う。


2008年10月07日(火)   夢の中

眠ったままで地下鉄に乗り、眠ったままで、会社に行って、眠ったままで仕事をする。私は夢の中にいる。長い長い、退屈な夢の中。


2008年10月06日(月)   眠る

今はもう、何処かへ行きたいとは思わないんだ、誰かに会いたいとも思わない、誰かと言葉を交わしたいとも。急速に、轟音をたてて、私が収縮していく感じ。ものすごく眠い。冬眠する生き物ってこんな気分なんだろうか。すべての活動が鈍重に、緩慢になっていき、やがて静かに、静かに、停止していく。それでも目覚めていなければならないと、叱り飛ばす声が今はもう、聞こえない。私は昏々と眠るだろう。もはやどんな夢も、見ないだろう。


2008年10月05日(日)   過去を這う地虫

言葉を組み立てる、という作業にはとっくに飽いているのだった。切り取って、読み替えて、並べ替える作業。ああどうか、私に創造を求めないで、そんなものは、これまでも、これからも、決してない。私には翼がない。高く、遠く飛び立つような、孤独な鳥のまなざしなんて持ちえない。私は過去を這う地虫であり、そしてその土壌はもう枯渇している。それでも、組み立てては崩し、崩してはまた、組み立てることをやめないのは、地虫の最後のプライドである。地虫らしく、矮小で、卑屈な、プライド。


2008年10月04日(土)   肯定/否定

いくらでも黙っていられる。どうぞどうぞ、と穏やかに笑っていられる。私はまるで底なしの肯定。けれどそれは、裏を返せば絶対の否定。


2008年10月03日(金)   粛々と

大学に籍を置いていたころは、窓の外が白んでから眠るのがあたりまえで、一限目の講義などまともに出られた試しがなかった。「朝が苦手だから」と事あるごとに口にして、毎朝同じ時間に起きて毎朝同じ電車に乗るなんてとてもとても信じられない、と肩をすくめていたけれど、いまでは毎朝7時に起きてお弁当を作り、毎朝8時過ぎには家を出て、毎朝8時13分の地下鉄に乗る。

粛々と、うつむき加減に歩く。

一歩ずつ、あきらめる。

そのことを非本来的な現存在の在り方、という勇気など、とっくにない。


2008年10月02日(木)   無為

抜けるような秋晴れのさわやかな休日を、どこにも出かけず、誰にも会わず、規則的にページをめくりながら過ごした。今はそれでいいと思っている。けれどいつか、もしも私が文字に飽いたなら、という恐怖にも似た感情が、忍び寄ってくる。無為、という二文字から逃れるために、懸命に次の本を探す。


2008年10月01日(水)   黄土色の背表紙の

『哲学者の密室』を読んでいて、大学図書館に並んでいた黄土色の背表紙のハイデガー選集を思い出す。あれは「毒された」のだ、と今は思う。未熟で無防備な精神は、次から次へ展開される強烈な否定と嫌悪にずたずたに切り裂かれ、病んだ。耐性のない愚かな精神によるハイデガーの中途半端な受容ほどたちの悪いものはない。とにかく便利な刃物だった。切れ味は最高に良かった。あまりによく切れるのでしまいには自分を切らざるを得なくなった。安易な至高性を確保するための、大袈裟な身振り。よくもあんな恥知らずなことを。

もしも時間が許すなら、もう一度ハイデガーをゆっくりと読んでみたい、とようやく思えるようになった。呪詛をこめて、或いは、愛をこめて。


nadja. |mailblog