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2008年05月31日(土)   singing to the birds

「おまえらしくない」という最も簡単で最も巧妙な呪術。たとえばカミカゼをあおるように飲むおまえはおまえらしいがカルアミルクを一杯だけ、なんていうのはまったくもっておまえらしくない、といったような。おまえだってときには甘い酒を飲みたいときもあるだろうに、そこに私の目があったならおまえは確実にカミカゼを注文するということだ。その逆もまた然り、私はおまえの前で生つぶしイチゴチュウハイなんかを飲むわけにはいかない、カルヴァドスをロックで、くらい言わないことには「私らしくない」のだから。

このくだらなさが「らしさ」の正体であることに気づいたところで、呪術は解けない。ともすれば「らしさ」を守るためになら自分を殺しかねないのがおまえであり私だ。くだらなさの海で溺死することはいかにも「おまえらしい」ことでありまた「私らしい」ことでありうる。おまえも私も「殉ずる」という言葉が大好きなはずだ。

こうして首を絞め合って、いったい何年経ったんだろう。

そろそろやめるか。

それもまた、くだらないけど、ねぇ?


2008年05月30日(金)   what you going to do so all alone now

おまえの弱々しい声が耳にはりついて眠れず、おまえのかすかに震える声が耳に響いて仕事が手につかない。「おまえにだけは見抜かれたくなかった」とおまえは言う。それでは私はおまえの影を恐れ、おまえは私の影を恐れていた、ということになる。お互いに恐れ、お互いに怯え、お互いにより複雑でよりいびつな存在になろうとしてお互いを毀損していたということか。なんと愚かな。

人が不要な告白をするときたいてい何かを期待している。まさかおまえともあろうものが友情などをあてこんでいるとは思えない。救いを求めているわけでも、赦しを求めているわけでもなかろう。期待ではなく覚悟か。それとも懺悔か。何れにしてもろくなものではない。まるでおまえらしくない。


2008年05月29日(木)   so what if your hero never was

国際電話から聞こえてきた頼りなげな声は本当におまえのものだったのだろうか? 少しだけ話していいか、と問う声は震えてさえいたではないか、あれほど私を苦しめた、すべてお見通しだと言わんばかりの嘲弄的な声はどこへ行った? 

おまえに認められようとして何度血を吐いたか。そんな声では、そんな歌では、とはねつけられて、何度泣きわめいたか。そのおまえが、今になって、私を、私だけを恐れていた、と言う。

おまえの翼を折った男が憎い。

まだ十四や十五のころに、おまえは私の裁定者として君臨し、以降絶対的な暴君として、或いは唯一の理解者として、ときには私を路上で殴り、ときには私に刃物を突きつけ、そうしてときには私を支えた。私は架空の物語のなかで、何度おまえを殺したか知れない。

そのおまえが、今夜、ただの女として。

なんということだ。


2008年05月28日(水)   

しとしとと雨の降るいやな夜にはイブプロフェンが手放せず、頭の位置を少しでも動かせば視界に火花が散る。強烈な文字列を追い続けた眼球が腫れあがっている。今までそれなりに操ってきたつもりのあらゆる語彙やあらゆる表現が完全に敗北した夜。こういう体験も良いものだ。


2008年05月27日(火)   stayed alive, stayed alive so far

空が青い、と思ったら、今日はキミの誕生日だったね。人の誕生日なんかめったに覚えないのに、それだけキミが特別、ということだ。最近むくみがひどかったり、階段がしんどかったり、皮膚がたるんできたりして、それはそれは鬱陶しいよ。これからどんどん醜くなって、どんどん壊れていくんだろうね、メンテナンスが大変だよ、キミには関係のない話だけど、っていうあたりがムカつくんだよね、ちょっと聞いてよ、こないだ髪の分け目から白髪がさぁ! なんて話をしたかったと思う。一緒にぶざまに年を重ねたかったと思う。まあ、仕方がない。キミはいつまでも若く美しいままであれ。


2008年05月26日(月)   

好悪の感情が芽生えるような深さまで誰をも何をも立ち入らせないこと。その逆もまた然り。巻き込まれるな、巻き込むな。つけこまれるな、つけこむな。利用されるな、そうして決して利用するな。


2008年05月25日(日)   

何事かを人に対してするときは、あらゆる期待を排しておかなければならない。うれしかったとか、ありがとうとか、そんな言葉を欲してするくらいならしないがマシだ。あさましい。


2008年05月24日(土)   

貴方も私もほんの少し腕を伸ばすだけでいい。貴方も私もたった一言を口にするだけでいい。貴方も私も互いのホームの掲示板に点った最終の赤いランプに背を向けて階段を駆け上るだけでいい。なのに貴方も私もそうしない。


2008年05月23日(金)   

何を知ったところで拒むでもなく抗うでもなく。どんなに高価な香水を使ったところで骨の髄から立ちのぼる濃密な敗北主義の匂いは消し去りがたく、退屈な相槌だけがテーブルの上に溜まっていく。こんな女にはとっとと見切りをつければいいのに、貴方もまた気安さに甘えているのだろうか。遅れてきた戦士であるはずの貴方が私などといるべきではないだろう。
………私は再び、自分を嫌うことをはじめようとしている。


2008年05月22日(木)   i'm not listening

ノイズはノイズで消すに限る。聞こえないふりが上手になった。あくまで聞こえないふり、だから、本当はちゃんと聞いているのだけど、聞きたいと思う声も、ニュースも、あまりないから。


2008年05月21日(水)   

錨、という字と猫、という字はとても似ている。家、イエ、に私を繋留する、猫、或いは錨、という重み。


2008年05月20日(火)   

もう間違いたくない、という怯えが判断をにぶらせる。どうせ間違うのに。近頃、行った道をよく引き返す。くるり、と突然向きを変えるものだから、
よく人にぶつかる。迷惑な話だ。ぐずぐずもたもたしているというそのことじたいがまず間違っている。人生全般に対する運動神経の致命的な欠如。


2008年05月19日(月)   

快楽を求めることは罪でもなければ恥でもない。だがそこで愛情をあてにするのは救いようのない罪であり拭いようのない恥である。だからせいぜい、身体を鍛えることだ…。


2008年05月18日(日)   i want to be the girl with the most cake

それで幸せなのか、と問う人に、幸せになど関心がない、と答える。それで悲しくないのか、と問う人に、ケーキは嫌いだから、と答える。それで楽しいのか、と問う人に、楽しくなければならない理由を問い返す。


2008年05月17日(土)   tarrying with the negative

具体的にどこがどう、というのではないけれど絶望的に体調が悪い。歩くのがやっと、座っているのがやっと、という具合。ひどいときには身体が震えて、うー、と獣のように低く唸っていたりする。だから復讐のように、などと言うのだ、こういうときは仮想敵をでっちあげてでも無理矢理に立たねばならない。憎んで、恨んで、呪って、涎を垂らして這いつくばって、否定的なものにすがりついて、やっと人並み。


2008年05月16日(金)   soft scars

「狂おしく愛していたから」なんて表現はおいそれと使えるものではないよな、と、ブーゲンビレアの鉢植えを買った帰り道、『やわらかな傷跡』をふんふんと口ずさみながら歩いていて思う。腫れあがる傷痕の記憶はある種の狂おしさに繋がっていくけれど、愛していたというよりは求めていた。あんな感情を持つことはもう二度とない。だからその代わりに、ブーゲンビレアが狂おしく咲けば良い、まるで、復讐のように。


2008年05月15日(木)   salad days

たまたま母校の近くに行く用事があって、通学路を歩いてみたら体育館から女子生徒の甲高い声が響いていた。漬物屋ができていたり、喫茶店がつぶれていたり、それになにより校舎が建て替わっていたりで、ずいぶん様変わりした。この道を毎日歩いていたころ毎日何を考えていたのだろうかと、記憶をたぐっても案外曖昧だ。ちょうど下校時間に重なったのか、学生の群れとすれ違う。彼女たちからは、洗濯物の匂いのような、甘酸っぱい匂いが漂ってきた。私は部活が忙しく、群れて帰ることなどまずなかったし、ひねくれた生徒のつもりで精一杯きつい目をして歩いていたはずだけれど、やっぱりあんな甘酸っぱい匂いを隠しきれずに、きらきらと音がしそうな若さをふりまいていたんだろう。もっと楽しめば良かったのにと、小さく苦笑いをした。


2008年05月14日(水)   

この季節の風に吹かれるたびに「五月の風の中で」という古い歌を思い出す(参考)。歌詞のとくにここが好き、ということはないけど、五月の風の中で最後に唄うラブソングさ、というくだりはSHO-TAの尖った声とあいまって、好きだ。毎年五月のテーマソングである。

青く晴れた空を見上げながらベッドに寝転がって、葉がそよぐ音を聞きつつうつらうつらしていると、ラブソングのひとつも口ずさみたくなってくる。要するにとても、気持ちが良いのだ。


2008年05月13日(火)   

求められているものより以上のものを返せたときは落ち着いていられる。いつもこうでありたい。だからとにかく、何をどのくらい求められているのかを常に把握できる程度には賢くありたい。そして、求められていないものに関しては、まるで気にかけないでいられる程度には冷酷でありたい。


2008年05月12日(月)   

間断なく吐き気はしても、一滴の涙も零れないというのは、真面目に生きていないことのいい証明だ。真剣に憤ることもなければ、真剣に悲しむこともない。自分のことが、まるで他人事のよう。


2008年05月11日(日)   

この身体がどこにも行けないからといって、何百何千のクリックを繰り返したところでさほど遠くへ行けるものでもない。何百何千のページを繰ったところでやはり、さほど遠くへ行けるものでもない。だからといって身体を遠くへ運んだところで、この息苦しさ(或いは生き苦しさ?)から逃れられるというものでもない。


2008年05月10日(土)   

足元にからみつくLANケーブルの鬱陶しいことと言ったら!

…LANケーブルの束を踏みしめながら仕事をしている。デスクの上にはモニターが3つ、キーボードが2つ。

電話を待つその間に、赤や緑や黄色や青のLANケーブルが、足元からじわりじわりと這い上がってきて、足を縛り、腕を縛り、しまいには首にからみついてきて、縊り殺される妄想を得た。


2008年05月09日(金)   

時々人を試してしまう。たとえば何も言わなくても、〜してくれるんじゃないか、というふうに。それはおそらく、無邪気な信頼に基づく、期待の表れであるけれど、裏切られることが多いと、信頼は猜疑にとってかわられ、心は不信にこりかたまって、「そんなわけがないじゃないの」と、唇のはじっこを吊り上げながら、哀しい笑いを浮かべるようになる。

〜してください、と素直に言うほうが罪は軽いか。けれど口に出してそういう場合、私はあなたを信頼していないし、何らの期待も寄せていない。


2008年05月08日(木)   

願わくばもう少し寡黙でありたい。これ以上、愚かさを露呈しないように。どうやら気前が良すぎました。


2008年05月07日(水)   

何かを否定しようとするなら対象をよく知りぬいたうえでしなければならない。そうでなければ羨望と憶測の入り混じった不確かな否定に終わってしまう。否定する資格を手に入れるためには否定したいものに一度は同化しなければならない。もううんざりだ、という地点から出た否定でなければ、それは単なる逃げである。


2008年05月06日(火)   it's all the same fucking day, man

何のことはない、目覚めたらいつもの朝だ。アラームより先に起きて顔を洗い歯を磨き、代わり映えのしない道を歩き8時20分の地下鉄に乗って階段を駆け上る、代わり映えのしない顔に囲まれて同じ話を同じように繰り返し、退屈な8時間を過ごしたらそれで一日が終わる、淡々と。

道端のツツジが、ぶざまに萎れていたことくらいか。


2008年05月05日(月)   there is no milk.

からっぽのボウルを泡立て器で懸命にかき混ぜているようなもの。どれだけ攪拌しても泡立たない感情に、苛立ちすら覚える。それとも血で買った宝だ、誇っていい、と開き直るか。


2008年05月04日(日)   with our heads in the clouds

足元から熱気が立ち上ってくるような、初夏の盆地では新緑がにぎやかに萌えている。装飾のための書物を詰め込んだバッグを抱えた脇が汗ばむ。黒いテーブルの上ではベルグソンとドゥルーズがブスケの傷を媒介にして静かに手を繋ぐ。中庭ではゆったりと風が吹く。吐き気がするほど穏やかな時間が滑るように過ぎていく。

だから何、ということはない。思考停止の雲の中。


2008年05月03日(土)   we are so selfish together

時間と空間の捩れをかいくぐったせいで眩暈がするから腕につかまって歩くことにする。身体が重いから凭れかかることにする。心臓が無駄に波打つから大きな手のひらを左の乳房に重ねることにする。

それで、楽になった? 
それで、安心した?
それで、それから?


2008年05月02日(金)   so-called

その不完全な選択肢を補完する作業を、愛と呼ぶのかもしれない。


2008年05月01日(木)   i'm always so unsure

結局何の確信ももてないまんまに時間切れの形で中途半端な結論を強いられる。そうする理由は、そうしない理由は、と問い続けることで自分自身をすり減らしている。私がどうしたいのか、という問いが介在する余地はない。私の内なる声は常に不確かで、常に誤っているから。


nadja. |mailblog