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2007年09月30日(日)   #conclusion#

幸せなんて、いつだって、どこだって、どんなときだって、これが幸せだと決めてしまえばいいだけのこと。たかがそれだけの、簡単なことなのだから、わざわざ数え上げたりする必要はない。幸せか、と訊かれたら、とりあえず頷いておけば良い。幸せなんて、所詮、その程度の、欺瞞的なものに過ぎないのだから。それで笑えるなら、結構なことじゃないか。


2007年09月29日(土)   case#29

貴方は人類が存続することが無条件に良いことだという前提に立って物を言っている、と責めたのだった。すると貴方は悲しそうな顔をして、貴女は無駄が嫌いなんだね、と呟いたのだった。その通り、無駄なんて大嫌い、そうしてきちんと認識している、何もかもが無駄であり無意味であるということを。けれど無意味に向かって全力で咆哮するというその全く無駄な所作こそがもしかしたら、唯一の可能性なのかもしれない、と、ステージ上の幸せそうな人々を観ながら思ったのであった。


2007年09月28日(金)   case#28

多分、こんな静かな夜はもうない。明日からは、また落ち着かない日々。エルディンガーは既に3本目。BGMはLISA GERMANO『Happiness』。幸薄いという言葉がぴったりの枯れた声がsad but true、と繰り返す。もう13年も聴いてる。哀しみに満ちたステップを踏む。あきらめることを受け入れる。幸せってそんなもの。97パーセントくらい哀しくなくては、美しくない。


2007年09月27日(木)   case#27

事務所は薄汚いし社員はしみったれてるしどうにもこうにも我慢ならんのでお昼はフレンチのコースを。大きなお皿にちょこんと盛られた綺麗な料理を前にして幸せである。胃に入れるものはこういうつつましい、遠慮がちな感じが良い。もう半ばやけくそで、息もたえだえだけれども、とにかく幸せっぽいものを麻酔剤のように注入して、余計なことを考えないようにする。


2007年09月26日(水)   case#26

たとえばお昼に食べたオムライスがとろとろふわふわだったこと。それはたしかに幸せな口どけだった。一瞬の、持続しない、脆弱な、よって害のない、幸せ。だがそんな幸せを100個得るくらいなら、周囲を不幸のどん底に陥れるような、まるで復讐のような幸せをたったひとつ得たい。ほかのことはどうでもいい。


2007年09月25日(火)   case#25

朝7時に起き貧血と動悸をこらえながらの電車通勤である。目的地である会社は薄汚れた雑居ビルの2階、入り口の自動ドアをくぐったとたんにドブくさい臭いが鼻をつく。それでも仕事があるだけ幸せなんだろう、ってなんでそんなこと思わなきゃならないの、なんでそんなに下手に出なきゃならないの、なんでこんなとこで働かなきゃならねーんだよバカヤロウ、くらい言ってみたほうがよっぽど幸せになれるにちがいない。


2007年09月24日(月)   case#24

連休最後の日はまた昼間からシャンパンを飲み、いい気分でエディット・ピアフなどを聴いて過ごした。29日から公開される映画が非常に楽しみである。概してアルコールと音楽と退屈させない活字があればそれで幸せなのである。ああ、なんてちっぽけな幸せ、他人と共有することすらできないんだもの。


2007年09月23日(日)   case#23

何も書かずに寝る、というのは本当に幸せなことである。
24日午前10時39分記。

そうか、やっぱりそれに尽きるのか。


2007年09月22日(土)   case#22

携帯電話には沈黙してもらう。洗濯日和である。シーツを交換して掃除機をかけて雑巾がけをしてから自転車で本屋に行く。帰って熱いシャワーを浴びて冷蔵庫で冷えていたアスティ・スプマンテを空け、甘ったるくて怠惰な午後をベッドで過ごす。これがたぶん今自分に提供できるいちばんの幸せの形である。だけどBGMはボブ・ディランで、how does it feel? と問われるたびに、怯えてしまう。

(連休中につきおまけ。クリック


2007年09月21日(金)   case#21

マニキュアを塗っていて、かつてはこれも幸せな時間だった、と思う。でも今は薄め液を使っているせいかべたついて塗りにくく、ちっとも幸せじゃない。新しいのを買ってきてもたぶんそんなに幸せじゃない気がする。幸せがどんどん死んでいく。ほうら、やっぱりこういう不幸っぽいことを書いているほうがおさまりが良い。


2007年09月20日(木)   case#20

もう20回目だというのに「〜だったので幸せ」とうまく書けない。白状すると毎晩毎晩しどろもどろである。これまでの人生において幸せについてこんなに真剣に考えたことがあっただろうか、絶対なかったに違いない。だからきっと、これはこれで、幸せなことなんだろう、きっと、何か、変わるんだろう、と、たまにはオプティミスティックに。


2007年09月19日(水)   case#19

貴女の幸せを思ってしたことなのにすべてすべて裏目に出る。自分の好みの洋服を着せて、似合う似合うと喜んで手を叩いていただけ、か。何が幸せかなんて、外部から推し量ることはできないのだから他人の幸せに口を挟んではいけない。


2007年09月18日(火)   case#18

そうやってどんどん他人を拒絶して幸せ? そうやってどんどん寂しい場所へと自分を追い込んでいって幸せ? そうやってまたひとりぼっちで悲劇の続きをはじめられて幸せ? 自分で見捨てておきながら見捨てられた幻想に逃げ込んで幸せ? そう、それは、良かったね。


2007年09月17日(月)   case#17

ついて来ないでいい、と突き放すときの加速度が良い。嫌悪感をむき出しにして眼鏡をひっつかみ、机に叩きつけたときのガシャン、という音が良い。たぶんもう、あざ笑うような笑い方しかできなくなっているけれど、媚びるように笑うよりは良い。追いすがって泣くよりは鼻持ちならない女でいるほうが良い。幸せ、とは縁遠いかもしれないが。


2007年09月16日(日)   case#16

どうする、って言われてもねぇ、とシモーヌの苦笑が聞こえてきそうな夜であるが、彼女の方法論には決定的な矛盾があるのは確かだ。他者の幸福を願ってその身を砕きながら実は彼女自身が誰よりも幸福を信じていないのだから。いつかこの矛盾に関して何かマトモなことを書けるようになったら、それは本当に、幸せなことであろうとシモーヌの苦笑を聞きながら夢想する。


2007年09月15日(土)   case#15

思考の核の部分には「きみが幸せになりたいと欲する動機を言ってくれ」という、シモーヌ・ヴェイユの脅迫的な文言があり、「幸せ」という状態に対しても概念に対しても懐疑的であるのだが、シモーヌの師であるアランの『幸福論』には幸福であることは他人に対する義務である、と書いてある。曰く幸福は美徳であり、礼儀である。要するに人前に鬱陶しいツラをさらすな、と。シモーヌ、そういうことらしいよ、どうする?


2007年09月14日(金)   case#14

何も書かずに寝てみる、というのもなかなか幸せなことであった。
15日午前10時12分記。


2007年09月13日(木)   case#13

8月の終わりごろ、来月は何にしようかなぁと考えていたときによく聞いていたのがOVER THE RHINEの『Good Dog Bad Dog』であったのでこんなタイトルになったのだけれども「happy to be so」という曲はhappy、という単語が歌われるたびごとに一歩ずつ修道院に歩みを進めたくなるような曲である。今はもう、高い声も強い声も出ないけれど、歌うことは、いまだもって幸せの範疇のなかにある。

***
参考までに(ちょっとだけ試聴できます)。
Good Dog Bad Dog: The Home Recordings
Over the Rhine
B000042OHE


2007年09月12日(水)   case#12

そう、幸せはどうしても言葉と相容れない。幸せはそれ自身で充足している。今日はいくつか幸せなことがあったけれど、それらは非常にパーソナルなものであるし、幸せで、ただもう幸せであったのみなので、わざわざ言葉などという無粋なシロモノで汚す必要はないのだ。


2007年09月11日(火)   case#11

「私は、私の幸福について語りたいし、語らねばならない。だがそれが原因で、何とも理解しがたい不幸が私を訪れる。」(ジョルジュ・バタイユ『純然たる幸福』人文書院)

失笑。

もしも本当に幸福であったとしたら、もはや何も書かない。書く必要がない。空白を満たすように、今日も文字を拾う。幸福の代替物として。


2007年09月10日(月)   case#10

今日みたいな日は、もうなんにも考えず、とっとと眠ってしまうのがいちばん幸せ。


2007年09月09日(日)   case#09

たとえ今日のような試合を見せられた日であっても、おかげさまで鼻で笑うのが上手になったよ、幸せだね、と書かねばならないのか、だったらこんなことやめてやるちくしょー! と思うのだった。三位転落。


2007年09月08日(土)   case#08

大好きだった人は二言目にはお金の話をするような人になってしまったのだけれど、見渡せばけっこう、お金で買った幸せばかりで、ちょっと寂しくなったりする。お金で買えない幸せなんかない、と、言い切る勇気はまだないが、ぷっくりと膨らんできたアロカシアの新芽を眺めていても、ああ、これもお金で買ったんだよな、と、思うのだった。


2007年09月07日(金)   case#07

自分の幸せは他人の犠牲の上に成り立っていることを忘れないこと。「みんなで幸せ」なんてそれこそ「幸せな幻想」だ。だからたまには自分が痛むことで人が笑えば良いと思う。本日母は幸せそうであった。彼女はずっと、もっと痛んでいたはずだ。ありがとう。おかげさまでけっこう、幸せな生です。


2007年09月06日(木)   case#06

「電話、出なくていいの?」の問いかけに、「いつも電話に出なければならないほど貧しくない」と答えて携帯電話を部屋の隅っこにぽーんと放り投げる。某ミステリに登場するヒロインから無断借用した科白だけれどことのほか気持ち良く、その瞬間まぎれもない自由を感じて幸せだった。一度の電話できちんと用件を伝えられないマヌケな営業につきあう義務はない。ざまーみろ、ばーか、なんてムキになってるあたり相当貧しいような気もしなくはないのだが、そこはまあ、西之園嬢と違って庶民であるので仕方がない。


2007年09月05日(水)   case#05

では心を入れ替えて正々堂々と「〜だったので幸せ」と書いてみようとしたのだが、眩暈と貧血でつぶれた一日のなかにそんなものは見つかりっこないのだった。だけれども幸せであらねばならない理由なんかないので、別にこれで良いのだった。


2007年09月04日(火)   case#04

疲れたとか虚しいとか書くのは簡単だけれど、幸せだ、と書くのは、とてつもない勇気がいるなと4日目にして気づく。自分を可哀想な存在に仕立て上げようとして一生懸命、というわけだ。ああ馬鹿馬鹿しい。なんていうふうに自分を罵る材料を見つけたときも、とっても幸せ。


2007年09月03日(月)   case#03

幸せ探し、自分探し、恋人探し。どれも胡散臭い感じ。そんなもの、探せば探すだけ分からなくなるのに。探してみつかるものでもないのに。なんていうひねくれた考え方をもてあそんでいるときが、とっても幸せ。


2007年09月02日(日)   case#02

もう既に反省している。ハッピー、だなんてそんなの字面からして末尾の「ー」が最高に間抜けな感じだし、「ピ」という破裂音がどうしようもなく滑稽だ。だいたい「幸せ」じたいが間抜けで滑稽なものであるのだから、パキラの新芽をじーっと眺めてるときの顔だとか、ぶどうを頬張ってるときの顔だとか、猫のおなかにすりすりしてるときの姿なんてもう、間抜けと滑稽のきわみに違いない。まったく何ということをはじめてしまったんだろう…。


2007年09月01日(土)   case#01

逆説をこねくりまわしてまで物事を肯定的にとらえる必要はどこにもないと思うが(否定的で何が悪いというのだ)、カイメンちゃんの掟に反してあれだけ疲れた疲れたを連発したのでその反動で今月はあー幸せ、幸せ、めちゃめちゃ幸せー、というのをやってみることにした。これは自虐的な試みである、或いはイロニーの精神を鍛えるための実践的な試みである。とりあえず今日はクロールでやっとこさ100メートル泳げるようになったので幸せである。いったいどこに逆説なりイロニーなりが含まれているのかとか問わないように。


nadja. |mailblog