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席はひとつしかないので、譲り合いの精神などはまったくもって不要、押しのけて、蹴落として、おかけください。
と言われているような気がしてならない今日この頃。連戦連敗、居場所がなくて、ため息をつくかわりに青い青い空を見上げた。そろそろ梅が咲くだろう。おしあわせに、か?
オレンジ色のラインが入ったプーマのジャージに真っ赤なイチゴ型のポシェットを提げた女子高生とおぼしき女の子はいびきをかいて眠りこけていた中年男に向かって「スイマセンウルサイデス」と一喝、なかなかやるじゃないか、と思っていたら近くにいた薄汚い男が靴を脱いだせいであたりに悪臭が漂い、避難をしようと席を立ったら案外新聞紙を敷いて靴はおろか靴下まで脱いでいる輩が相当数に上ることに気づいてやはり大学図書館まで行こうと心に誓ったのであったが入試シーズンでしばらくのあいだ休館の模様。無念である。
ひとつ間違いがあると、ここぞとばかり集中砲火を浴びせたがる国民性。政治家にも威厳がなさすぎる。「心がない」「出産の重みが感じられない」「人権を無視している」、それらは皆、善良なる感情論にすぎない。機械と装置がダメなら構造主義はどうなるんだよ。
亡羊を追い払うには狼になるしかない。失った過去がいつまでもじくじくと今を荒らすなら、こちらから食ってやるしかないだろう。ようやっと、そういうまともな思考回路が戻ってきた。それは多分新幹線の中で、何故貴女が死ななければならなかったのかと人目も憚らず泣いたことと無関係ではない。悔しかったのだ、とにかく、悔しくてならなかったのだ。
破片であるのなら、ひとつひとつの刃先を研いでいくだけである。せめて誰かを傷つけうるという幻想が、甘い救済となる。今日は眩暈に対抗しながらよく学んだ。いつか牙となれば良い。
このように非常に醜い行動原理に従っている。
粉々に打ち砕かれた彫像は、貴方に拾い集めてもらうしかなかったのに。もう一度歩き出すなんて、無理な話、とてもではないけれど、無理な話。ちょっとばかし心が壊れたという程度では、なかったのだから。
何をやっても、ちぐはぐで。
もはや破片である。
実用書の類の装丁やタイトルがほんとうにほんとうに苦手で、手に取るのもいやだ、視界に入れるのもごめんだと思ってきたのだけれど、なりふりかまっていられない現実がたしかにあって、「よくわかるなんちゃら」「すぐできるなんちゃら」(このお手軽感も苦手だ)みたいな分厚い本を買った。あまりにストレートすぎて、恥ずかしくなる。
2007年01月24日(水) |
あきらめましょう、左様なら。 |
苦々しい気持ちを苦いコーヒーで飲み下しているときにMAZZY STAR の「Look On Down From The Bridge」が聞こえてくる。そしてそのままそれが今日一日の支配的なトーンになる。誰もかれもみながぼんやり遠い、といったような。
甘く優雅な、「左様なら」。
あきらめましょう、あんなことや、そんなことは。
決断するときにはいつも、沈黙していなければならない。そしてその沈黙を、なんらかの結果が出るまでは、守らなければならない。
あなたが速読術を身につけているのはよく分かったから、眼球の動きにあわせて身体までゆするのはやめてください、と、前に座っていた人にいいたくてならなかった。なかなか集中できなかったということは、彼の術中にはまっていたということなのだろうか。少し悔しい。
2007年01月21日(日) |
おしゃべり女に天誅を |
虚空に向かって投げたはずの言葉は下っ端の神様に聞かれてしまった。そして本物の神様の真似をして願いを叶えようとした下っ端の神様は、取り返しのつかない過ちを犯してしまった。彼には3日後のことしか、わからなかったから。
おしゃべり女には天誅が下りました。
言ったもん負け、ということも、たしかにあるなと思うのだった。この、舌のざらつきはいったい、何だろうか。
饒舌に語られたことは、いつもどこか胡散臭い。
水分の調整がうまくいかないせいでいろんなことが滞る。とにかく、目が痛くて、あまり良く見えない。見たく、ないのかもしれないが。
今日顔合わせをした新しい担当はメガネをかけるとフクヤマに少しだけ似ていた。いやん、素敵。
そんなおどけた日記を書いたとしたら、いやんフクヤマ羨ましいと茶化してくれたであろう彼女はもういない。だから葉を落とした街路樹の隙間から空を見上げて、新しい担当がかっこよくてさ、と報告をした。これからは空を見上げる回数が増えそうだ。
生者による、生者のための儀式を終えて、そして生者の日々は続く。柩に納められた小さな犬のぬいぐるみが、いにしえのアヌビス神のように彼女を慰めてくれればよいのだけれど、などというのも、生者の勝手な感傷である。小糠雨が降りしきる、沈痛な告別式であった。
バーチャル・リアリティとはいえど、半分は「リアル」の成分で成り立っている。彼女の言葉は二度と更新されることはないし、とぼけた顔で眠る犬の写真の背景がオレンジ色に反転することもない。それらはリアルにおける不在よりもよりあからさまな形で彼女の不在を告げ知らせるだろう。
冥福を祈る。
あのメールには、あえて返事をしなかったんだ。正直なとこ、何を言ってんだい今更、と思ってさ。どうせ、「あ、そう」とか、せいぜい、「そっか、それはひどいね」とか、「でも分かってたことでしょ?」とか、そのくらいの言葉しか、ひねり出せそうになかったしさ。
マスカットとか、桃とか、メロンとか、ありがとう。頭よりでっかいザボンを送ってくれたことも、あったよね。なのにこっちはいつでも551の豚まんでごめん。
ってーかさ。
渋川海岸に一緒に行ってビール飲むんじゃなかったのかよ。
先に行くなよ。
置いていくなよ。
まったくあんたはいつだって勝手でわがままで
ついていけないよ。
それで、どうよ。
自由になった気分はさあ?
広い広い野原を走りたい、なんて言い出したときにはさ、思わず赤面したけどさ。
今頃走ってるでしょ。気持ち良いでしょ。もう楽になったでしょ。
なじゃりん、ってさ
言いはじめたのはあんたでさ。
いい年こいて何が「りん」だよ、と思ってたけど
あの声はちょっと、忘れられないね。
忘れないよ。
おつかれさま。
よく頑張ったね。
ゆっくり、おやすみ。
例えば、激情のままに書くことによって、感情のはけ口を作ってしまい、耐えてはならないことを、耐えてしまうようなこと。或いは、さらなる従順さとあきらめを胸に、もといた場所へ仕方なしに、悄然と舞い戻っていくようなこと。或いは、嘘で固めた経歴のうえに、また後日嘘でごまかさねばならない安直さを塗り重ねるようなこと。
もうこんなことは、終わりにしなければならない。
400円のカレーライスを流し込みながら、食べるという行為を完全にやめれば一週間の後にはこの身体は内部からじんわりと腐敗をはじめるのだ、と考えたのはカレーライスがあまりに不味すぎたせいだけではない。たしかに不味かったのだが。ただ、食べないというだけで人は死ぬ。そんなあたりまえのことにびっくりしただけ。
とにかく、なんでもいいから、とりあえず、というスタンスが昔から苦手なのだが、だからといってそのうちそのうち、で先送りを繰り返しているわけにもいかなくなってきた。追い詰められたら本領を発揮する、というタイプでもないので、要するに気分が乗らないときは何にもできない能無しであるという自己認識に至った。いつ気分が乗るのかは分からないのでとにかく、なんでもいいから、とりあえず、ここだけは更新しておく。
大晦日に思わず目を背けた格闘技の試合がノーコンテストになったらしい。画面上に本当のことは何も映らないと考えたほうが良さそうだ。それはもちろん、パソコンのディスプレイにも。
信じられるものは、少ししかない。
疑惑の芽というものは少しでも気を緩めたら最後、恐ろしいスピードで肺や心臓にからみついて胸のうちを食い荒らし、レスポンスの不在をいいことにやりたい放題をして、ため息をひとつこぼした隙に唇の端っこにそれはそれは見事な花を咲かせてしまう。そうなればもう、救いようがないくらい皮肉な言葉しか吐けなくなって、また鬱陶しがられるんだ。
2007年01月10日(水) |
それはぐりぐりのせいではない |
■パソコンの電源を入れた瞬間にそれまで頭の中に留めておいた言葉が雲散霧消してしまうような気がしてならない。
■首の後ろにまたしてもぐりぐり出現。おかげで地面が何度か揺れた。
■そろそろ自堕落が熟しきって腐敗臭が漂ってきた。
■倦怠に同意するにはまだ少し早い。
あのときあなたと見たコートを、今日オークションで落札しました。こんなことをしても過去が購えるわけではないのに、あさましいことです。おそらく、いまだ、あなたが羨ましくて羨ましくて仕方がないのでしょう。なんとかして、あなたと、対等であるという感覚を味わってみたかった。無理をして、背伸びをして、無様ですね。マウスを持つ手が、震えたりして。屈辱をかみしめながら、この冬を越します。
20年前は、スタイリッシュな学者たちの羽のように軽い言動の中に、10年前は、誰が一番大きな声で話すかを競う深夜番組の中に、おそらくあったのであろうこの国の「知の中心」はいまや、確実に、二極化が囁かれるお笑い芸人の雑学の中に移行している。で、「知の最先端」がどこにあるのかといえば、それは多分、古層のほうを向いている。未来のことなんか、あまりに怖くて誰も考えていない。
椅子から落下。全身強打。数秒間呼吸停止。椅子を背負ったまんま力なくタスケテェとうめくも家人すでに熟眠。なんとか這い出すも腕の痺れおさまらず。軽く吐き気も。
人間なんて脆い鳥籠みたいなものだ。
簡単に、簡単に、毀れる。
いい年をして、酒もひとりで飲めないらしい。店は今夜も、誘蛾灯に吸い寄せられる孤独に老いた背中でいっぱいだった。人の声と、街の灯りはそんなに恋しいか。彼女は瓶ビールを2本飲んだあと、「人の集まるところが見たい」と言って、夜の繁華街へひとり出かけていった。
娘もいて、孫もいて。二日とあけずに家を訪ねてくれる、連れ合いまでいて。それでもそんなに寂しいか。たったひとりの老いであるなら、いったいどれほどか。
未来が先のほうから凍っていく。寂、という字は、家の中の声が次第に細く、小さくなっていくさまを表す。
形式よりも、内容。
とはいえやっぱり、形式も大事。
画面とにらめっこしている間、いったい何をやっているのだろう、とは一度も思わなかった、と書けばウソだけど、まったく達成感がない、と書くのもウソだ。なかなか楽しかった(homeから青い四角をクリックしてください)。
遠くばかり見ていると足元の小石にぶつかるが、だからといって近くばかり見ていたら目の前の雑草をかきわけた途端、崖っぷち。
青の地下鉄は毎日、自分の思っている方向と逆の方向に進んでいた。何処へ向かおうとしているのか、まったく分かっていなかった。
眼鏡をかけずに歩いたりするから、こんなことになるのだった。
年末や正月には、あんまりひとりで出かけたくない。仕事という便利な口実が今年はないから、飲んではつまみ、つまんでは飲み、駅伝とか、ツタンカーメンとか、博士の異常な愛情を見ながらこたつに足をつっこんで自堕落な正月をたっぷりと堪能した。けれど誰にも咎められない自堕落というのは、たいして魅力的なものではない。人が一生懸命働いているときにだらだらと昼夜逆転をして時間を無為に過ごしてこそ、自堕落は妖しい輝きを放つのだ。正月は働くに限る。
余暇はテレビに吸い取られるためにあるのではない、とはいえさしあたりすることも思いつかず、テレビを相手に思い込みとしったかぶりだけを根拠にピントの外れた砲撃を繰り返すリビングが恥ずかしいほど白熱してきたので今のところ唯一自分のテリトリーであるパソコンの前に避難してマイナーチェンジを繰り返す。
駅伝には素直に興奮。
テレビは時々、あくまで時々、とても良いが、やっぱり余暇はテレビに吸い取られるためにあるべきでは、ない。
■欲張らない。
■エクセプションとエクスキューズは最小限にとどめる。
■具象に走らない、かといって曖昧に逃げ込まない。曖昧を重ね合わせて具象に至る、ような。意味の確定は気前良く放棄してしまう。
■あらゆる視線の空隙を自由に泳ぐ魚のように。
■今年は、そんな感じで。
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