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2006年10月31日(火)   「ちゃんとする」

耳の後ろのぐりぐりがなくなって少しだけ復活の兆し。でもまだ首筋にはでっかいしこりが。このしこりに気づいたのは尾道のホテルだったのだけれど(10月17日のことですな)、そんときは「どーにでもなれぃ」と、思っていたのだった。案の定どーにもならんわぃ。

具合の悪いときの常として、特にそれが月末近かったりすると、「今月はもうだめ、来月からちゃんとしよ」ってな具合に一番近い区切りまでできる限り怠けていようとするあんまり良くない傾向がある。明日からはちゃんとする予定だがまた眩暈でも起こそうものなら「来月から」、ひどければ「来年から」。さてどのラインを死守するかな。

「ちゃんとする」って、何をだろうね。

今年もあと2ヶ月か、早いね。


2006年10月30日(月)   成り行き任せ

こんな物語はいらないんだと片っ端から文庫本を投げつける朝。年に数度この手のヒステリーを起こすのでガラス扉のある本棚に収納されていない本は角が折れていたり頁が破れていたりする。

投げるのは文庫本だけである、さすがに。神戸に住んでたときはフーコーもシェストフも投げたけど。

お? シェストフ?

それいいんじゃないの?




と思ったらこんなすごいのが出てきた。こりゃひどいね(笑)。

でもドストエフスキーが「ドストイェフスキー」と表記されているのが良い感じ。これから『悲劇の哲学』(破れてるけど)を「ドストイェフスキー」が出てくるたびに「ドストイェフスキー」とアタマの中で音読しながら読むことにする。

なんかもっと違うことを書こうとしていたような気もするのだけどまぁいいか。目の焦点が定まってきたらちゃんと書きます…。


2006年10月29日(日)   若さがだなあ!!

カフェイン禁止にはかたくなに抵抗し続けてきたのだけれども食後の珈琲を楽しむはずが壮絶な吐き気に苦しめられる羽目に陥りついに降伏。ずるずると後退を続ける。

禁止の一歩手前でとどまっていたのでは云々と去年どこかに書いているがこうまで盛大に禁止されると逃げ場がない。許可されている生活はといえば朝昼晩と胃にやさしい食事を規則正しく摂り、あとはひたすら横になって血圧の上がらなさそうな穏やかな音楽を聴いて猫を撫でる、くらいの超微温的なものである。禁止を免罪符にして今しばらく人生をサボっても罰は当たらないであろうがなんというかその、

若さがだなあ!!

ブスブスと消化不良の音を立てながら死んでいくのだよ、我の臓腑の内側で。


2006年10月28日(土)   1994年

プール禁止、アルコール禁止、読書禁止、運動禁止、パソコン禁止、禁止禁止禁止、どうせならもういっそのこと呼吸も禁止にしてくれないだろうかとふてくされつつ禁止の間をかいくぐって1994年に発売されたLIZ PHAIRの『Whip-smart』を1枚通して歌う。昔はタイトルチューンの低音が出なかったものだが今は「Nashville」の高音が出ない。これをのどならしにしていた頃があったとは到底信じられず。

1994年。音楽はまだ幸福であった。素朴なアレンジ。素朴なメロディ。素朴な感性。それで事足りた。曲名も歌詞も分からぬまんまに消費されることなどなかった。

当時の日記に面白いことが書いてある。「悲しい歌が歌えなくなるから幸せになってはいけない」。ガッデム。見上げたプロ根性(笑)。

今は悲しい歌など歌えなくて良いから幸せになりたい、と思う。


2006年10月27日(金)   飽きた。

ああもうこんな病人暮らしにも飽きてきた、また颯爽と風を駆り蒼馬を駆って見知らぬ土地へ出奔したい、たらたらちまちま、まどろっこしいのは大嫌いなんだ、常に切羽詰っているのが良い、追い立てられ、追い詰められて、ぎりぎりのところで踏ん張っているというのが良い、そういうとき、自分は思っているよりもずっと強く、ずっと有能である、と錯覚することができるから。

こんなふうに、背中から根っこが生えたみたいにベッドに縛りつけられていると、自分は救いようがないほど弱く、無能である、と錯覚してしまう。

実際は強くもなければ弱くもなく、有能でもなければ無能でもない、といったところなのだろう。

どうでもいいな。

とにかく飽きた。

右耳の奥で鼓動を正確に辿るもうひとつの心臓の音がうるさくて、自分が何を書いているのかもよく分からない、最低。

***

今日は猫2匹をワクチン接種に連れて行ったので自分の病院はお休み。来年も2匹そろって連れて行くことができますように、と毎年思う。


2006年10月26日(木)   来年こそ。

目の上に氷嚢を乗せてじぃっとしていると、世界がだんだん縮小していくように感じられて悲しい。

氷嚢の隙間から、日本ハムの優勝を見届けた。

然るべき人には然るべき物語が用意されている。

上原ぁ、解説なんかしてる場合じゃねーぞ(笑)。


2006年10月25日(水)   気持ち悪い。

少しだけ耳の不快感がとれてきた、がまだ右耳の下方には10円玉大のリンパ腺の腫れがある。

気持ち悪い。

こうして画面を睨んでいるとなおのこと気持ち悪い。

今日は水曜日だし久しぶりに映画に行った。アルノー・デプレシャン『キングス&クイーン』@中崎町PLANET+1。フライヤーには2番出口沿いの歩道を北へ、とあるのだが幸か不幸か階段をあがったとき自分の身体が都島通に沿っていたためそのまま歩き出し、約1分、と書いてあっても10分くらい歩いてみないと自分が間違っているとは決して思わないのが方向音痴である。

まぁ、運動になって良い。

・・・これだけ書いただけでもう耐えがたく気持ち悪い。

パソコンの画面というのはこんなに白かっただろうか。


2006年10月24日(火)   死人のように

まるで棺桶に横たわる死人のように一日中氷嚢を目の上に乗せて死んでいた。文字通り死んでいた。読まず書かず聞かず。何をする気も起こらず。

何度か眠りに落ちて何度か奇妙な夢を見た。

***

旧い友人から電話があって、女性と一緒に暮らすことになったので部屋を探していたら、そこにキミの表札があがっている、とのこと。母に尋ねると、そう、そこはおまえの家で、とおもむろに錆びた鍵を取り出す。市場を抜けた下町にあるその家は今にも倒れそうな木造の一軒家で、「望羊荘」と書いてある。確かに私の名前の表札もあがっている。私はその黄ばんだ紙の表札を引きちぎり、ポケットに入れる。鍵を差し入れると、コトリと音がして、ドアが開いた瞬間、まぶしい陽光に目が眩む。望陽荘、のほうがしっくりくるくらい、日当たりの良い家だ。

望羊荘はとても広い。8畳ほどの部屋が5つ。歩くたびに床がきしむ。調度品は何もないが、どの部屋にもちょうど光の差さない場所に本棚が設えてある。もう古本屋でしか見かけなくなったような古い雑誌や書籍がぎっしりと詰まっていて、もう私はここから離れたくない、と思う。

***

私は神のようなものである。だから下半身と上半身を切り離したくらいで死にはしない。大きな川のほとりで私は自らの下半身をかみそりで切り離す。血も流れない。私の身体ははじめからそうであったかのように、きれいにふたつに分かれる。下半身は埋めてしまう。上半身だけになった私は何かを激しく祈っている。何かがなされなければならないと強く強く祈っている。そしてそれが成就するであろうことも分かっている。

***

どちらもどこか幸福な感じのする夢だった。


2006年10月23日(月)   雨の月曜日

ああ、私は正しい日に帰ってきたのだ。こんなにしとしとと、霧のような雨が降り続く月曜日は、まずいまずい水薬を飲んで、じっと安静にしているのだけがふさわしいに違いない。

猫が2匹とも少し痩せていた。

ごめんね。


2006年10月22日(日)   都市生活の憂鬱

いつまでもいつまでも、走っていられれば、それだけ現実からは逃げていられるのだから、理想的なのだけれど、そんなにお金も、体力も続かない、というどうしようもない現実に、尻尾をつかまれる。

9時間半に及ぶ列車の旅はメニエールには荷が勝ちすぎていたようだ。

またこれ、しばらく寝込むんだろうな、というあきらめとともに帰途に着く。最後の最後でスーパーやくもにのぞみグリーン席、新大阪からタクシーという飛び道具三連発(それでも4時間はかかった)。カモノハシがゆっくりとすべるように岡山駅に入ってきた瞬間に都市生活の憂鬱が心臓を貫く。

内耳の腫れがひいて、眼振がおさまったら少しずつ書こうと思う。


2006年10月21日(土)   よくやった。

ほら、やっぱりものすごくおもしろかったじゃないか!!

と、達成感にみちあふれ疲れも忘れてひとり祝杯をあげる夜。

チャンスがあるなら賭けるべきなのだ、どんなときも。


2006年10月20日(金)   「いつでもできない」

それはひどく愚かな思いつきで、敢行したからといってどう、というようなものでは決してなく、素晴らしいものが待ち受けているわけでも、美味しいものが待ち受けているわけでも、決してない。

新幹線はまだ走っている時間で、飛び乗れば2時間後には自宅のベッドだ。

駅ビルで珈琲を飲みながら、考えた。

私は明日事故に遭うかもしれない、
明後日祖母が入院するかもしれない、
一週間後には北朝鮮が核弾頭を発射するかもしれず、
一ヵ月後には父の会社が倒産し、一家離散せねばならないかもしれず、
三ヵ月後には私は妊娠しているかもしれない、この先何が起こるかなんて、誰にも分からない。

「今」を逃してしまったら、次はもう、ないかもしれない。

当たり前に用意されている明日など存在しないのだ。

それがたとえどんなにくだらない思いつきであったとしても、今の私はそれを敢行することができる。明日の夜になって、「ああ、やっぱりくだらなかった」でも、かまわないじゃないか、やらない後悔よりやった後悔だ、

という結論に達するまで、1時間くらいかかったが、多分間違っていない。「いつでもできる」と考えるのは平和ボケしたかぼちゃアタマのすることだ。


2006年10月19日(木)   昨日とおなじ今日なんて、

別にかくれんぼをしているわけではないのだがなぜか自分が今どこにいるのかを明かしたくない。だが此処は「毎日更新」が必須である。それは私が自分に課した一種の義務で、たとえLANケーブルをひきちぎっても、日本にいる限り電波は届くのだからその義務感から逃れることはできない。

だから窓を開ければ海の匂いがするだのといったあいまいな表現でごまかしているのであるが、今日はどうしたってごまかしようがない。75年草木も生えぬといわれた町が、それから61年でこのような姿になっていることにどうして涙を流さずにいられようか? 立ち並ぶビルディング、風にそよぐ街路樹、大通りを抜けたところに突如出現するあのドームがなかったとしたら、たった61年前にそのようなことがここで現実に起こったなどと、いったいどうして信じることができようか?

今日の元安川は太陽の光を受けてきらきらと輝いていた。

生きたい、生きたい、生きたい、という無数の叫びを思う。

平和に、日常に、深く感謝する。

昨日と同じ今日、は、なんら当たり前のことではないのだ。


2006年10月18日(水)   西の果てまで

PAOLO BIONDINIのハイヒールは大阪へ送り返してしまった、そのかわり駅前のショッピングモールで2980円のブーツを買った。ジーンズの丈はどうしようもないので同じ9センチヒールだが、靴底が皮からビニールに変わっただけで随分と歩きやすくなった。読み終えた本―小川洋子『薬指の標本』、同じく『博士の愛した数式』(読み終えたのは電車の時間待ちをしていた喫茶店だったのだが277ページのあたりで少し泣いてしまう)、カポーティの『冷血』、オースターの『ムーン・パレス』(どれもこれも読みたいとは思っていたけれど読む機会を逸していたものばかりだ)―も送った。

今はなき南海サウスタワーホテルのアメニティだったルベルコスメティックスのシャンプーとトリートメントが昨日の夜、空になった。Diorの洗顔フォームも使い切った。

荷物はどんどん軽くなっていく。

毎日居場所を変える。
毎日新しい人に出会う。
毎日知らない景色を見る。
毎日違うベッドで眠る。

旅を続けることが楽しくて仕方ない。

西の人々はみな優しい。どこから来たの、いつまでいるの、と気さくに問いかけてくれる。道を尋ねればメモを渡してくれる(多分致命的な方向音痴である私が2回、3回と念を押すからだ)。スターバックスにたむろする目の周りを真っ黒に染めてミニスカートをはいた女子高生たちはこちらが何も言わなくても「ここあいてますよ!」と席をずれてくれ、コンビニの店員でさえ「これはねえ、ほんとにねえ、僕の中で今大ブームなんですよ、めちゃめちゃおいしいですから!僕が保証しますよ!」と大演説をはじめる。ギャラリーのオーナーは自分のカメラと犬の話に熱中し、おかげで私は電車の時間を逃したが先を急ぐ旅でもない。

いったい何が私を止めてくれるのだろう。このままだと、西の果てまでたどり着いてしまいそうだ。


2006年10月17日(火)   さらに、西へ。

どこのホテルでもライティングデスクの正面には鏡があって、こうやって書いていると時折、否が応でも自分自身の顔と向き合わざるを得ない。

ここ数日の陽気のせいで少し日に灼けた。
三食きちんと摂るせいで少しふっくらした。
何だか元気そうだ、少なくとも自分の部屋でPCの画面を一日中眺めているときよりも。

まだ、いけるね、と真正面の自分に問い、
まだ、いける、と口元に笑みを浮かべてみる。

窓を開けると微かに海の匂いがする。

嗚呼、こんな静けさが欲しかったんだ。


2006年10月16日(月)   へその緒としてのLANケーブル/西へ

さて私の銀色の武器は不慮の事故によって一足早く大阪へ向けて送り返されてしまったので今、私は丸腰である。

一時は混乱し狼狽したが、落ち着いて考えてみればたいしたことではない。数年前までそんな武器は存在していなかったのだし、「PCがないと書けない」などといっちょまえぶってみても書くべきことが何であるのかさえ定まっていない状況である。

切り離されてみれば良いのだ、という結論に達するまで多少の時間を要したが、一旦そう決めてしまえば心も身体も荷物も軽くなった。

太さ1センチにも満たないような銅線でつながっていないと何もできない、だって? 不安で仕方無い、だって? 情けない、wwwの大海はいまや母胎だとでもいうのか? 

へその緒のようなLANケーブルを引きちぎり、西へ向かう。


2006年10月15日(日)   不在/私を見つけて

不在である、と宣言していながら、こうしていつでもどこでも誰でもが私を見つけることのできるスペースに、どのような手段を使ってでも懸命にたどり着こうとするのは、誰かに−あなたに−私を見つけてもらいたい、という、抑えがたい衝動のあらわれ、であるのに違いない。


2006年10月14日(土)   帰るべきか、帰らざるべきか?

行き詰まったので居場所を変えてみた。これ以上大阪でできることは何もないような気もしていた。ほとんど衝動的に長距離バスに乗りこみ、窮屈な座席に押し込められている間、このまま他所の土地に根を下ろすことも不可能ではない、と考え続けていた。

私は会社に所属していない。
私は組織に所属していない。
私は誰かに所属していない。

もっと現実的なことを考えてみる。バスが岡山に着く。ジーンズで来てしまったのでとりあえずそのへんのこぎれいな店でこぎれいに見えるスーツを2着ほど買う。登録だけは済ませてある派遣会社数社に電話をし、岡山周辺での仕事の斡旋を依頼する。高望みさえしなければそんなものはすぐに見つかる。マンスリーレオパレスの契約をし、翌月給料が振り込まれるまでをしのぐくらいの蓄えはある。それにいざとなったらそのへんの派手めな店で派手めなスーツを2着ほど買い、濃い色の口紅を買っていつもより少しばかり丁寧に化粧をし、せいぜい若作りをしてトシをごまかし、ホステス募集の看板を出している店に駆け込めば良い。数晩笑って歌って酒を飲めば元は取れ、もう数晩笑って歌って酒を飲めば少しは楽にやっていける。作り笑いの売り方くらい知っているのだから。

話が非現実に逸れたところで方向を修正する、私が「売れる」ものはキーボードを叩く速度であり数種のOAを扱う能力であり電話口でべらべらとよどみなくまくし立てる話術でありそしておそらく一番重宝されるであろうものはある種の契約に関する膨大な知識である。ややこしい制度が導入されようとしている今、某社のシステムの隅から隅までをくまなく知り尽くしていることが履歴書から滲み出している私を店頭に欲しがるショップは少なくないはずだ。だいたいここら界隈で長く勤めている人ならばあからさまな蔑みを含ませた慇懃無礼な物言いと私の名前は即座に結びつくだろう、「あいつか!」。

あいつだ、自分の名前を一音一音区切ってわざとらしく発音し、喧嘩を売るあいつだ、hello, hello, hello,hello, HOW LOW?

話がさらに非現実に逸れたところで再度方向を修正すると、私がこのまま大阪の自宅へ帰ることなしに、岡山でも、広島でも、松山でも、博多でも、アクセントの問題があるので気が進まないがなんならフォッサマグナの東の方でも、なんとか暮らしていくくらいのことは即座に可能なのだ、ということである。

そのような、可能性のとてつもない「開かれ」を、自宅の狭苦しい部屋の机の前で、私は刻一刻灰にし続けているのだ、ということに気づいたらもう、大阪に帰ることなど到底できないような気がしてきてぞっとした。

帰るべきか、帰らざるべきか?

冗談で書き始めたつもりなのに書き終える今になってみるとこの問いが妙に真実味を帯びはじめていることに軽い恐怖を覚えつつおやすみ。


2006年10月13日(金)   16番目/問い/あの頃

ドクターゴーシュ再び。

きっちり2週間で再度ドクターゴーシュの診察室をノックしたのはここ数日処方どおりに薬を飲まないと眠れないからである。ロヒプノール2ミリを1錠、というのが今の処方なのだが、少し前までそれを半分に割ってそれをさらに半分に割って、要するに0.5ミリでやってくる微かな眠気でどうにかなっていた。中途覚醒はもともとないので寝入ってしまえばあとは問題ない。4時間か5時間くらいはそのまんま夢を見ていられる。だがここ数日は2ミリきっちり、時には引き出しの在庫、たいていはきつすぎてあんまり飲みたくないような、から+α、でなければ脳内が沈黙してくれない。

診察券を提示すると「16番目です」と受付嬢。軽く2時間コースである。2週間前と同じカフェに行き、今日はアイスティー1杯でポール・オースターの『リヴァイアサン』を読みながら1時間半ほど粘り、奇妙に明るく整頓された待合室のふかふかのソファに座って待つこと1時間弱。

ドクターゴーシュの声は深くて暖かい。

だからつい、型どおりの問診のあと、問うてみた。

真綿を詰め込まれていたり鉄の棒を飲み込まされていたり心臓を鷲摑みにされていたりして真夜中に絶叫したり新聞紙を引きちぎって部屋中にばらまいたりしながらどうにか対処している私の不安、は普遍的なものであるのか、それとも病的な範疇にあるものなのか。

ドクターゴーシュはあくまでやさしく笑う。

「貴女ならお分かりになるはずですよ、その頃と」

といって私の左腕のあたりを見やる。

「比べてごらんなさい。」

その頃、

一日中泣いていたり一日中どうやって死ぬかばかりを考えていたり睡眠薬を何錠もアルコールと一緒に飲んで気がついたら屋上のフェンスを握ったまんま倒れていたり目覚めたら部屋中に血痕が飛び散っていて左腕には包帯がぐるぐる巻きになっていたりした頃、

「確実に狂っていた」としか表現しようのない頃、

を通過しての今。

「そうですね。」
「貴女はもうご自分を傷つけたりはなさらない。」
「はい。」
「ご自分をコントロールするすべをご存知だ。」
「はい。」
「貴女は大丈夫です。」

はい、と答えたあと、少しだけ泣きたくなった。

その後ドクターゴーシュがなんと続けたのか、あんまり覚えていない。多分、誰しも皆不安ですよ、とか、そういうときもあります、とか、そういった、また型どおりの答えだったと思う。答えははじめから分かっているのだ。「不安」は前提として、条件として、つねにすでに、そこにある。病的か、そうでないかを決定するのは当人の意識だ。そして私は今、自分が病的でないことを知っている。

ロヒプノールとデパス(+α、に関してはしこたま叱られた)、「お守り程度」のレキソタン3錠の処方箋を受け取り、またハイヒールのかかとを音高く鳴らしながら家路についた。

あの頃、に比べれば何もかも平気だ。

また唇の端っこをつりあげて笑ってみせてから、平熱に戻る。


2006年10月12日(木)   霧/激昂/踏みつけるためのハイヒール

今夜は少し霧が出ていた。

私は激昂していた。

多分1年半くらい前に梅田大丸で買ってそのまんま下駄箱にしまってあったポリーニのハイヒールを履いた。黒のシルクサテンが美しい、シンプルなハイヒール。

踏みつけるためのハイヒール。

硬いコンクリートを、おしゃべりを、幻想を、戯れを、詭弁を、饒舌を、行為を、甘えを、隔たりを、怯懦を、吝嗇を、欲望を、言語を、空想を、狂気を、憂鬱を、傷跡を、過去を、倒錯を、眼差しを、生を、死を、夢を、愛を、

踏みつけて、踏みこえていくためのハイヒール。

夜の街を歩いている間にJEFF BUCKLEYがHallelujahを歌い、それはライブテイクであるので彼は歌詞を飛ばしてしまい「これってロックンロールっぽいだろ?」とおどけてみせ、JOHN CALEもまたHallelujahを歌ったが聖なる鳩は見つからなかった。大きな黒いカラスがゴミ袋をあさっていた。

身体の軸は決してぶれない。
私は踊り方を知っているのだから。

ハイヒールをはじめて履いた日のことを思い出す。それは高校1年生の、御堂筋パレードの舞台の日。衣装とともに用意されていたのは銀色の、7センチくらいあるハイヒールだった。大江橋から難波までを踊りながら、走りながら、笑いながら通り過ぎ、控え室に戻ったとき私たちの大半は足の指から血を流していた。辛かったね、と、痛かったね、と、皆で泣いた。

私はまだ激昂している。

あのときからずっと激昂しているのかもしれない。

生まれてはじめてハイヒールを買ったのはいつだったのだろう。大学の入学式、私はどんな靴を履いていたのだろう。ジャン・ポール・ゴルチェの黒いスーツにいったいどんな靴を合わせたのだろう。覚えていない。

いつからか私はハイヒールしか履かなくなった。少し力を加えるだけで折れてしまいそうな細いヒールしか履かなくなった。いつからか、本当にいつからか。そしてそのハイヒールを履いて歩くとき、いつも、何かしら、激昂している。怒りを、憎しみを、或いは悲しみを叩きつけるかのように、アスファルトを踏みつけて響かせる。

なれない靴に足の指が痛み始める。

それでも私は歩きやめない。

LOWを、CALEXICOを、NINE INCH NAILSを、DIRTY THREEを、SLIPKNOTを、 MASSIVE ATTACKを、THE LA'Sを、MUSEを、GUNS N' ROSESを、PJ HARVEYを、STYROFOAMを、LISA GERMANOを、THE ARCADE FIREを、ANDREA PARKERを、 COCTEAU TWINSを、MANIC STREET PREACHERSを、NEUTRAL MILK HOTELを聞きながら

許し方を探して歩きやめない。

すべては霧の中だ。


2006年10月11日(水)   失効/不信/愛すること

私の一日というのは今だいたい朝の6時ごろ終わるようになっているのでたとえば1時や2時という早い時間に更新をかけてしまうと、言葉の寿命、とでもいったものによってその日一日が閉じられるまでの数時間にそれらが丸ごとすべて失効してしまう可能性もある、

ということに気づいた。

***

言語一般に対する不信であるならそれは哲学或いは言語学の領域の話で、それこそ私は何百という傍証をひいて原稿用紙100枚くらいの論文を書くことだってできる。

だが愛の言葉に対する不信は致命的だ。

「記号は証拠にならない。誰にだって、偽りの記号、両義の記号を作り出すことができるからだ。だからこそ、逆説的なことではあるが、言語の全能性へと向わざるをえないのである。なにひとつ言語を保証するものがないのだから、わたしは、言語そのものを唯一で最終的な保証とみなすだろう。わたしはもはや解釈を信じないだろう。あの人のことばは、すべて真実の記号として受けとるだろう。自分が語るときにも、わたしの言うことを相手が真実として受けとるかどうか、疑ったりしないだろう」

なんならまだ続けてもいい。

「そしてひとたびそれが言われたならば、たとえ一時的にしろ、それが真実なのである」

(『恋愛のディスクール・断章』ロラン・バルト p.320-321)

この礎石を抜きにして、いったいどんな言葉が可能だろう?

領域を踏み越えた不信は苦い。

いったい私に何が可能だろう、肉体を欠いたこの状況下で?

証拠にならぬ記号を信じること、それこそが愛することではないのか?

***

だまされてみれば良いのだ。

安全な場所から
愛を求めるのは間違っている。

傷つく覚悟もなしに
愛を欲するのは間違っている。

だから私は走ったではないか。


2006年10月10日(火)   膨張する夜

体の内側にびっしりと真綿を詰められているような/喉と同じ太さの鉄の棒を口から挿し入れられたような息苦しさがこみあげてきて午前6時ごろまでのたうちまわる。身体感覚が狂いはじめる。内側がどんどん膨らんで外側がそれに耐えられずめりめりと音を立てはじめる。

もちろん、こんなことははじめてではない。

だがロヒプノールではどうにもならず、結局レボトミンを足して、膨張を続ける意識を強制的に切断した。メジャートランキライザーを身体に入れるということは自らの意思でもって自らの明日を壊すということだ。真っ赤なシートから真っ白の錠剤を押し出すときには常に罪悪感が伴う。

私は今以上、これ以上、自らの意思でもって自らを壊したくはないのだ、できることなら。

再び意識が繋がるのは16時を過ぎてから。ばらばらの器官を寄せ集め、周囲の雑音を騒音のような音楽で遮断しながら図書館へ。メジャートランキライザーの代わりに、意識を沈黙させてくれるような、文字列を探しに。

そうして私は丹念に言葉を拾いながら、夜を、時間を、空洞を、埋めていく。

しばらく徹底的に、「読む」ことに集中する。

+++

ル・クレジオ『物質的恍惚』。軟体動物のような書物。


2006年10月09日(月)   私は携帯が嫌いだ

半年という月日を隔ててもなんの代わり映えもしないまんまの5日間があっという間に過ぎ去った。

私でなくとも。
常に誰かがあの悪夢をあの場所で見続けている。
途切れることなく、見続けている。

その悪夢が紡ぎだす電波にヒトは
夢や愛をのせる。

けれど

手のひらに収まる程度の
お手軽なものでないことを伝えるにはやはり

目を見て話さなきゃダメだ。

そう、思いませんか。


2006年10月08日(日)   ちゃんと抱いて

■空洞を埋めるのはロゴス、か。ロゴサントリスム/ファロサントリスム、へええ。なるほどね、と苦笑してみる夜。

■午前6時ごろ眠り午前8時半に起き、午前10時には会社にいる、というスーパー離れ業を4日間続けている自分に酔いしれながら適当に仕事をしていたらすんげぇミスをしてうわぁぁぁやっちまったよぉぉぉと走り回った。てめぇのケツはてめぇでぬぐえといわんばかりに「対応して」と厳しく突き放してくれた毒蝮、どうもありがとう、おかげで目が覚めたよ(笑)。

■そうだ、尻拭いが本職であったのだ、半年前まで。粛々と、電話をかけ、粛々と、謝り倒し、粛々と、再登録。ご丁寧に、たった5日間のヘルパーに用意されていたIDはかつてと同じ、尻拭い専用のオールマイティ権限だった。

■「こんな私」を「仲間」にしてくれる「世間」がまだ存在していることに対する軽い驚き。

■身体がもっと、もっと、と要求するので、午後9時半の街を駆け抜けた。日曜日、ジムは午後7時に閉まってしまう。寺町を抜け、いくつかの坂を左手に見ながら、逢坂が見えたところで、Uターン。

■おかしなテンションはおさまらず、帰ってお風呂につかりながら「焼け野が原」をフルボリュームで歌った。「もう、歩けないよ」、が許される年齢をはるか遠くに過ぎ越していながら、それでもまだ「だから抱いて、ちゃんと抱いて、この身体に残るように」、というフレーズは真実味を帯びている。


2006年10月07日(土)   月を見ながら泳ぐこと

夜のプールその2。

息継ぎのたびに、一日遅れの中秋の名月と目が合う。我々が見る月の光は1.3秒前に放たれた光である。1.3秒前の光を目指して泳ぐこと、の意味は分からないけれどものすごく研ぎ澄まされた時間であったことだけは確かだ。

この3日間、働いていた。

ほとんど眠らずに、働いていた。

眠りたくなかったから、眠らずに、働いていた。

疲労の極点でなければ月はあのように美しく輝くまい。

冴え渡っていた。

一点の疑念も、邪念もなく。

あの光を目指して泳ぐこと。


2006年10月06日(金)   バカヤロウ

お風呂で大粒の涙をこぼした頃多分、空から雨が落ちてきて、月を隠してしまった。

闘ったヒト。
死にたがり。
バカヤロウ。

純粋なまま
汚れなきまま
死んでしまうなんて卑怯だ。

「何でもいい、
これが正しいのだと信じてうそをつけ」

そう、書いたくせに。

うそを吐きうそを重ねうそに塗れて
うそに溺れうそに酔いうそを信じて

狡猾に

私は生き延びた。

だって月が見たいのだもの。空が見たいのだもの。歌いたいし、踊りたいし、笑いたいし、泣きたい。愛したり、愛されたり、憎んだり、憎まれたり、信じたり、裏切られたり、許したり、許されたり、したい。

それらのすべてがうそでも、いつわりでも、かまわないじゃないか。

なんだって、どんなだって、かまわない。

そう、思うようになったことを、私は己の堕落だとはみなさない。

+++

『友よ私が死んだからとて―長沢延子遺稿集』読了。


2006年10月05日(木)   オトナ/コドモ

とても、とても、とても言いたいことがあるのだけれど、言わないほうが良い、と分かりきっている場合、どのようにしてその言葉を消化/昇華するのが「オトナ」のやり方なのか、いまだに分からないから、言わないほうが良い、と分かりきっていてもつい言ってしまうのだけれど、いいかげんそういう「コドモ」っぽい失敗にも飽きたので、口をつぐんでいようと、今必死で頑張っているところ。


2006年10月04日(水)   ハレーション

傍証をひいてこないと相手にしてもらえないような。
直感と感触でモノを言うとあざ笑われるような。
本当は生々しいはずのものをわざとらしく取り澄ました顔で「論じ」なければならないような。
結局は安全な場所に身体を置き、そこから「見下す」ように「分析」を強いられるような。

嗚呼、くだらないな、と思ったのは多分新入生歓迎会の会場で、だった。

何でだろう。何でこんなに相容れないんだろう。生きることと、学ぶこと/思考することは。

という疑問はそれから7年の歳月が流れた今になっても、答えらしい答えを見出すこともできぬまま、臓腑の底に澱み続けている。

決して「教養」であってはいけないと思う。だが今のままではどうしたって「教養」の枠を出ないのだ、私の生と、ヴァレリーの苛烈な言葉のなんと乖離していることよ。

安易に流すことの決してできない言葉たちを前にして私の生はハレーションを起こす。そして生に寄り添う安易な「娯楽」に手を伸ばす。


2006年10月03日(火)   マーマパーパ

■味噌汁を作るたびに「あたしって天才ちゃうかな」と呟いてしまう自意識過剰ぶりはさておくとしても私が作る味噌汁は美味しい。美味しいと断言してしまう。特に二日酔いの朝など。

■母、上高地より帰宅。10分後にはここは屋台か、というほどのみやげ物がどばーっと陳列された。そしてきわめつけは「このマーマパーパかわいいやろ」。ええぇ??? それバーバパパ。その後じぃぃっとアルファベットを読みながら「バー、バー、パッ」。そ、そこで終わりかい!

■マーマパーパで1時間くらい笑ってからプールへ行った。

■バタフライのクラスを、受けてみよっかな、と、思っていたのだけど、皆さんタチウオのように飛んでいたのですごすごと退散した。今日は二日酔いのわりには身体がよく動いて平泳ぎで500メートルくらい、泳いだ、と思う。

■平凡で、平和な、日常。

■こんな気分でここを書くのは久しぶりな気がする。凪いでいる。開かれている。整っている。呼吸も静かで、深い。


2006年10月02日(月)   それもひとつの真実

母が婦人会の旅行へ出かけていった(またですよ)。18の頃から水商売一本でやってきた人なのに、「おばちゃん」たちと話せることなどなかろうに。それでもいつも嬉しそうなのでいつもにこやかに見送ることにしている。

徹底的に掃除をした。レンジを磨きオーブントースターを磨きガスコンロを磨きシンクを磨きトイレを磨き風呂場を磨きガラスを磨き鏡を磨いた。「キミの爪が荒れるから」といって皿洗いさえさせなかった男もいたな、昔(笑)。

少しだけ、昼寝(!)をしてから、スーパーに行き、贖罪、違う、食材を買って「きょうの料理」を見ながら音楽を聞きながら鼻歌を歌いながら料理をした。

7時ごろ父が帰ってきて、亀田の試合が延びたとか、ディープインパクトの敗因とか、ジャイアンツの低迷とか、そんな話をしながら、食べた。私は、スミノフアイスドライを2本飲んだ。

そんな、当たり前の、そんな、単純な生活。



誰かと、築きたいと、思ったりしているのは、

いまだ、思ったりしているのは、

非常に非常に滑稽だが

それもひとつの、私の真実である。

しょくざい、が、贖罪、であるような、私であっても。


2006年10月01日(日)   じっと、待つ。

雨の日の猫は眠いのだ。そして雨の日の私は地軸がずれるのだ。太陽に目を焼かれる物語に目を焼かれ、氷嚢を乗せて内耳の奥の龍神が鎮まるのをじっと待つ。

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じっと、待つ。

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私の足が静脈瘤に埋め尽くされるまであと何年。髪の毛が痩せ、銀色に染まり、抜け落ちるまであと何年。皮膚の表面が落ち葉のような手触りになってしまうまであと何年。小さな文字を読めなくなるまであと何年。愛されうるのはあと何年。「存在」が終わるまであと何年。

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待っている時間など、どこにも、ありは、しない。

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『大洪水』読了。
白石かずこの詩集をぱらぱら。


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