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2006年09月30日(土)   Nobody Loves Me

檻の中には二人以上の人間がいなければならない。地獄とは他人のことであり、一人では地獄は形成されえないのだから。分かり合えない、触れ合えない、という地獄。付属物のように、沈黙する男、あるいは女。沈澱する、汚穢。だがあなたはそこを出るという選択も可能なはずだ。なぜならそれは檻ですらない、開かれた空間であるのだから。それでもあなたの細い腕は柵に接合されている、まるで磔刑に処されたキリストのごとくに。(ジャコメッティ『檻(第1ヴァージョン)』雑感)

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海の見えるカフェでビールを飲んだ。ちっぽけな、倉庫に埋め尽くされた、海だったけれど。

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西ノ宮を通り過ぎるとき、iPODからPORTISHEADの「Sour Times」が聞こえてきた。「Roseland NYC Live」からのテイクだが、ベス・ギボンズの発するNobody Loves Me、は狂気の響きを帯びていて、背筋が寒くなった。西ノ宮。吐き気がするほど整頓された街。この街のどこかであの男は暮らしている。吐き気がするほど整頓された部屋で、吐き気がするほど整頓された生活を、吐き気がするほど頭の軽い女と

だがあの男のようには、誰も私を愛してくれないかもしれない。

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『大洪水』第12章途中まで。今夜中に読み終えるだろう。


2006年09月29日(金)   もう少し、お眠りなさい。

朝の7時になればゴミ捨て場の扉は開くのに心無い住人が真夜中にゴミを出す。そのゴミを漁りにカラスがどこからか飛来する。それでなくても脆弱で頼りない私の眠りはカァカァカァという不愉快な合唱によってさえぎられ、午前6時、宛てのない殺意を音のない叫びとともにひとつ飲み込んだ。

まるでかぼちゃのような頭。重く、鈍く、痛む。今すぐ撃ってくれても良い。

祖母の薬をもらいにいった内科で、医師が栄養剤を点滴してくれた。その薬を渡しにいくと、祖母は、「これ、なに」と言う。貴女が2時間ほど前に、もらってこいと言った薬じゃないですか、嗚呼。

意を決して午後、3時間待ちを覚悟でドクターゴーシュのもとに向かう。多分ドクターゴーシュは優しすぎる。だからあんなに患者が列をなすのだ。近くのカフェでミルクティーと珈琲を飲み、待合室のふかふかのソファで横になって時間を潰した私が診察室のドアを開けた瞬間、ドクターゴーシュは「お久しぶりですね」と、左手で椅子をさしてみせた。

一瞬だけ、その手に縋りついても良さそうな気がした。精神科医は「父」であり「神」でありうる。

ドクターゴーシュは「もう少し、お眠りなさい」と、懐かしい名の薬をくれた。だけれども、本当に必要なものが何なのか、私には分かっている。

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『大洪水』第7章まで。


2006年09月28日(木)   水幻想

夜のプール。
痩せた音楽が響くなか
私が水をかく音だけがぴちゃりぴちゃりと

このまま何処かへ行ってしまえないものだろうかと
へたくそな背泳ぎをしながら
鉄筋に区切られた空を見上げる。

ひどい貧血。
また体重が落ちた。

水の中でなら
少しだけ
繋がっていられるような、幻想。

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読まなくちゃ。


2006年09月27日(水)   そのまま信じる

■今朝メーラーが一通のメールを受け取ることを拒否。単なる受信中のサーバーエラーだが私にはよく理解できないポップアップに表示されたエラー名は「goodbye」。何か示唆的?

■こういうなんでもない「現象」をまるでタロットカードか何かのように深読みしようとするのも、悪い癖。「そのもの」を「そのまま」受け入れる努力をすること。一切の憶測と推測を遮断すること。

■「信じる」とはそういうことではないか?

■プールの水が冷たくなった。30分も歩いていたら身体が冷えた。バタ足をすると、まだ右の膝が痛んだ。

■体外に放出されない熱がこもって微熱っぽい。


2006年09月26日(火)   人生がもったいない

ドラール30mgで17時間爆睡。さすがに起き上がったときは血糖値が絶望的で、「ウィ、ウィ、ウィィ」と酔っ払いのような呟きをもらしながらホリスターのキャップを目深にかぶって酷い顔を覆い隠してコンビニへ駆け込み、ウィダーインゼリーを続けて3つ、飲んだ(食べた?)。

その後スープパスタとチョコレート、ビールで復活。

ああ、本当に、人生が、もったいない。

だが、まだ、眠り足りない。全然、眠り足りない。

もう少しだけ、眠ろう。

もう少しだけ、人生をさぼっていよう。

そして、また、プールへ行って、図書館へ行って、腹筋をして(笑)、仕事をして、音楽を聞いて、猫を抱いて。

そんな小さな生活を、はじめよう。


2006年09月25日(月)   アニーのように

突然電源が切れたかのように眠い。何年間かあまりに眠らなさ過ぎた。1日4時間の睡眠で人は生きられると思っていたけれど、鏡に映る自分の顔は頬がこけて目が虚ろだ。

「食べること、眠ること。眠ること、食べること」とサルトルも書いていたのではないか。

しばらくはじっと、物事の推移を見守るだけだ。


2006年09月24日(日)   東京雑感

■アリバイ作成をしようと思っていたのだけどそれもどうでもよくなってしまった。やはり嘘はつくべきでないし自分の感情はごまかすべきでない。「行きたくないから」「見たくないから」の否定が何故すっと出なかったのか。今後の課題とするべき点。おそらくはプライドに関わる私が最も苦手とする分野。

■正直であること、率直であること、逃げないこと、耐える方向ではなく闘う方向で検討すること、声をあげること(そうでなければ伝わらない)、それから自分の言葉に溺れないこと、誤読の可能性を排するために正確な記述をこころがけること、その分遊戯性に欠けることになっても。

■たとえばタクシーが事故を起こして身体が浮かび上がるくらいの衝撃を受けたのに謝罪を寄越さない運転手に対して「車大丈夫ですか」という間抜けな一言を反射的に発してしまう自分のお人よし加減は早急になんとかするべきである。相手が誠実でない場合はなおさら。明日首でも痛くなったりしたらどうするつもりなのか。

■大阪という街は適度にコンパクトで適度に馬鹿げていて適度に充足している。手の届く範囲にあらゆるものが雑然と配置されていて、人々はせっかちで整列せず、気取らない。

■それに対して東京という街は過度に拡散していて過度に生真面目で過度に充溢している。すべてがあるけれどすべてがない、といった印象。何十回と足を運んだが(しかし八王子や日野は「東京」と呼んではいけないのだろう・・・)皇居の東側ははじめてだ。なんというか、「私、いなかもんやわ」とでもいうか(笑)。

■他所の土地からやってきて、この土地に根を下ろすことの困難を思った。コンクリートは硬く、建物は脅迫的で、人々は誘っているようで拒んでいる。


2006年09月23日(土)   それは《無駄》ではない

大天使か娼婦か
ええ どちらでも
あらゆる役割が
わたしに与えられる
決して予想のつかない人生

わたしがいまだに探し求めている
単純な人生
 わたしの内奥に
それはひそかに棲みついている
 彼らの罪は あらゆる純粋さを
  殺してしまった



生は答える―それは《無駄》ではない
行動してよいのだ
反対か―賛成か
生は要求する
動くことを
生 それは血の流れ
血はたゆまず血管を流れる
わたしもやめられはしない 生きることを
植物を愛するように
人間を愛することを
眼差のなかにひとつの答えを ひとつの呼びかけを見つけ
潜水夫のようにその眼差を探ることを
でもそこで
生と死のはざまで
観念を細かく分析し
絶望について注釈を加えながら過ごすくらいなら
いいえ
それならただちに ピストル

海の底のような眼差がある
わたしはそこに沈みこみ
ときおり歩きまわる 眼差は
藻や屑のようにからみあう
ときには それぞれの存在がひとつの答えや呼びかけなのだ

『バタイユの黒い天使―ロール遺稿集』より


2006年09月22日(金)   破格

からっぽの街をめがけていさぎよく身を投げ捨てる、そこに腕など望んでいない
はじめからなかったものを望むほど落魄れたのは今は無き
師と仰ぐヒト、
今どこに
厳しさを厳しさだけをくれたヒト、
嗚呼この場所は夢に似ている
捧げもつ読めたためしもない原書隣にあったやわらかな笑み

空を抱く
まぼろしを抱く
過去を抱く
絶望を抱く
沈黙を抱く

見たくない景色を塞ぐ不在証明(アリバイ)はこれで完成我ながら
あざといことと知りながら
最後の意地を振り絞ってみる

閉ざされた扉は二度と開かないわたくしの心も二度と開かない
はずの心が簡単に開かれていく情けない
あなたにもあなたにもあなたにも無限に開かれゆく心
どこまで許せば赦されますか

永遠に否(ノン)というなら永遠に諾(ウイ)と答えるから神よ

祈るすべなど大阪湾に沈んでいますそしてこの虚無を見下ろす首都の頂


2006年09月21日(木)   長い夜

おそらく、何かがはじまり何かが終わるときの轟音。

私が、私を、笑っている。

夜が耐え難く長い。

今宵、月が死ぬ。

明日、闇は、深いだろう。


2006年09月20日(水)   燃える紅




すべてのまつりの後ろ姿を見送ってなお、燃える紅。

痛々しい誤解なら踏みにじれば良い。

わたくしは

絢爛豪華な哄笑を。

風に、揺れて、揺れて、揺れて。


2006年09月19日(火)   リハビリテーション

■2週間ぶりにジムへ行く。おそるおそる、トレーニングマシンに乗り、一番軽い負荷で膝を曲げ伸ばし。ボクササイズ担当のチーフマネージャーが、つきっきりでみてくれた。いつも一番後ろで超適当に超軟弱なパンチを繰り出している私が面白くて仕方ないらしい。が、「猫パンチさん」と呼ぶのはやめてほしい。

■で猫パンチさんはその後、これまた一番軽い負荷でクロスカントリーの真似事ができるマシンに乗り30分間、の予定が貧血起こして15分で退散しましたとさ。

■たった2週間で、簡単にへばる身体。

■そして卒業後3年半で、簡単にへばる知性。

■カタリ派関連の本を読むのに、クセジュからやり直さなければならないというこの屈辱。ニューロンとニューロンが手を繋いでくれない。

■一日一日は、何となく、適当に、過ぎ去っていくけれど、一日一日の積み重ねでしか、何事かを為すことは、決してできない。

■一番軽い負荷からはじめよう。何度でも。


2006年09月18日(月)   run, baby, run

膝の痛みも少し和らいで、階段以外は普通に歩けるようになって、ようやく空気が、流れ始めた。

朝からブルトンの『狂気の愛』を読み(こんな名前を自分につけてるくせに、まともに読んだのは『ナジャ』『秘法十七』『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』だけだったりする。いいかげんなものだ)、たとえば「だが、わたしは、ひとりの人間にとって、彼の欲望が表面的なものに留まっていることに一時的にせよ安住していることよりも、最大限の集中力で手錠をはずしてしまうような生き方に感動するのだ」(p.32)といった一文に唇の右端を釣り上げて笑ってみせたり、繰り返される「痙攣的な美」という言葉にインスピレーションをかきたてられたり、「待つことだけが最高に素晴らしい」(p.45)といった何でもない言葉に深く勇気づけられたりした。5年前に購入したこの本の裏カバーには何故だか一滴、私の血痕が落ちている。

長年探し続けた書籍に最高の形でめぐり合い、店主と深い言葉を交わした。『バタイユの黒い天使―ロール遺稿集』というもう十数年前に絶版になった書籍に深く惹かれるのは、冒頭に掲げられたロールの儚げな肖像写真もさることながら、厳しく拒み、そぎ落としながら、汚穢の只中に浮かび上がるある一つの真実を求め続けたかたくなさ、に「痙攣的な美」を見出すからである。1930年代という激動のフランスにあって、同じく厳しく拒み、そぎ落としながら、ただ聖性だけを追求したヴェイユとの対比も面白い。私はふたりを同じ強度で愛している。

ロールは35歳、ヴェイユは34歳でこの世を去った。

私も走り出すだろう。

明日、明後日、明々後日、いや、きっと、近い日に。


2006年09月17日(日)   愛/賭け/遊び

もしもこれが愛ならば、すべてが贖われるだろう。

そのくらいの、愛。
そのくらいの、賭け。
そのくらいの、遊び。

さあ、賭け金をどうぞ。

あなたの欲望の大きさに見合うだけの淫らさをあげよう、惜しみなく。

膝をつき、さらけ出し、懇願し、屈服し。

だからさあ、賭け金をどうぞ。

これらはみな言葉遊び。
ディスプレイの上を奔放に跳ね回るだけの言葉遊び。

私はこの身体をまるごと賭けよう。

さあ、あなたの賭け金はいくら。


2006年09月16日(土)   迸る/溢れ出る

片手間に書いているわけではない。自分からそれが失われれば生存価値を失ってしまうのだから。なのにこんなに書けなくて、はじめの一文字が書けなくて。

その門は閉ざされている、と感じるときの絶望をどう表現すれば良いだろう。

魂を売り払ってもいい。

言葉という武器が欲しい。

踊るには背が足りなかった、歌うには喉が弱すぎた、だから逃げた、誰もに与えられているはずの言葉に。

なのにやはり

私には与えられていないのか。

焼け付くような憧れが胸の奥で焦げ付いていく。

苦しくて、苦しくて、

この左腕の肉腫を切り裂けばほとばしるであろう鮮血にすべてを代弁させたくなる。

鼓動と同じ速さで溢れ出る生命、

のような、言葉。

あなたが遠い。


2006年09月15日(金)   エッセンシャル

こうして毎夜、今日は何をしていたんだっけな、とその日一日を思いかえそうとするのだけれど、ここ数日本当に何にもしていないので、この夜の時間が耐え難く苦痛である。少しでも苦痛を減らすために、たとえばマウスを替えてみたりだとか、腹筋の仕方を変えてこめかみまで筋肉痛になってみたりだとか、『千のプラトー』と『アンチ・オイディプス』をダンベルにしてみたりだとか、色々やってみるのだけど(やってないってか)、どうにもならない(当たり前だってか)。

本も読めないし、音楽も聞けない。モノを書こうとすれば画面上に亡羊が群れをなし、ふてくされて眠ろうとすれば息が詰まって身悶える。

そんな史上何番目かに最悪な日々が続いている中で、とにかく、人と会ったり、人と話したり、というのは、essentialなことであるな、と、思ったのであった。

どうもありがとう。


2006年09月14日(木)   一言

肉の声に耳を貸すな、それは常に甘えたがる。


2006年09月13日(水)   信じる

また眠るのを忘れた。

食べるのもよく忘れるのだが「寝食を忘れて」何をしているのかはあまり定かではない。何か書いたり、消したり、繋げたり、削ったり、付け足したりしている。

古いユリイカを出してきて読んだ。97年7月号。特集バタイユ。9年も経過していることに軽く驚く。当時懸命にポストイットをつけて傍線を引いた箇所が案外くだらなくて軽く笑う。「カントの場合は、本質的に歴史のモメントが抜けているからです」。何故こんな一文を重要だと判断したのだろう。

具体的なものに結びつけられていない思考の糸は簡単に途切れる。

「・・・さんは書かないと考えられない性質なのでしょうね」と中学2年のときの国語教師が言った。忠実に師の教えに従っている。

どん詰まりとも思える運気は秋分の日を境に好転する、と祖母を伴って行った耳鼻科の待合室に置いてあった週刊誌には書いてあった。時々星占いを信じたくなる。

信じたいと思うものがあるなら信じたほうが良いだろう。

信じる。


2006年09月12日(火)   夜明け前

明滅を繰り返すカーソルの先をじぃっと一晩中眺めていた。こんなに書きたくない日も珍しい。

午前5時19分。外はまだ、ほの暗い。


2006年09月11日(月)   サボタージュ

エンピツさんは今夜から明日にかけて、大規模なメンテナンス。お便りなども、いただけません。

だから私も今夜から明日にかけて、おおっぴらに、サボタージュ。


2006年09月10日(日)   問い

いつからか、そう、本当にいつからか、「書く」ことは「キーボードを叩く」ことになった。

いっちょまえに、「パソコンがないと書けない」からと、中古のノートパソコンを一台買った。OSのセットアップやら、ネットワークの確立やら、セキュリティソフトのインストールやらで、半日潰れた。

どんな仕組みで動いているのかも解らないのに。ある日突然電力の供給が止まったとしたら、いったいどうするのだろう?

この黒い箱の中で生成された言葉は、まるで羽でも生えたかのように身軽に何処へでも飛んでいくけれど、その分実体がない。重みがない。責任からも人格からも切り離されていて、薄っぺらい。

何の手触りもない。

ものすごく、虚しい。

私の体温は、無機質で無愛想な横文字の領域を通り抜け、0と1の信号に分解されてもなお、まだここにありますか。


2006年09月09日(土)   何も感じなかった。

何かを為した、という確かさを欠いたまま。

4時間ほどは眠ったのだろうか。起きたのは11時ごろだった。

家にあったユダヤ教関連の本を何冊か、ぱらぱらと読んだ。だがあの秘教的な雰囲気にはやはりなじめそうにない。ヘブライ語はとてつもない秘密を孕んでいる。

原稿用紙にして1枚にも満たない物語のような一人語りのようなものをいくつか書いてフロッピーにおさめた。

膝用のサポーターを買いに薬局へ行った。自転車に乗るとかなり痛んだ。

お風呂にだらだらと1時間ほど入り、ビールを飲んだ。

朝から何も食べていないことに気づいて23時ごろ茄子とえのきとしいたけの味噌汁を作った。白いごはんに梅干をのせると食欲がわいた。

心は何も感じなかった。

いや、多分それはウソだな。


2006年09月08日(金)   亡羊ノ影

この肉体は余計なもののようであるのでデトックスソルトを入れた風呂で溶かしてしまおうとして、COWBOY JUNKIESの「Misguided Angel」に不意打ちされる。



「ねぇ、この曲って、キーはAやよね」と突然電話をかけたとき貴方は笑っていたんだったか。そのとき買ったブルースハープはまだ引き出しにある。

あらゆる「He」は貴方だった。



I said "Mama, he's crazy and he scares me
But I want him by my side
Though he's wild and he's bad
And sometimes just plain mad
I need him to keep me satisfied"

I said "Papa, don't cry cause it's alright
And I see you in some of his ways
Though he might not give me the life that you wanted
I'll love him the rest of my days"

Misguided angel hangin' over me
Heart like a Gabriel, pure and white as ivory
Soul like a Lucifer, black and cold like a piece of lead
Misguided angel, love you 'til I'm dead

I said "Brother, you speak to me of passion
You said never to settle for nothing less
Well, it's in the way he walks,
It's in the way he talks
His smile, his anger and his kisses"

I said "Sister, don't you understand?
He's all I ever wanted in a man
I'm tired of sittin' around the T.V. every night
Hoping I'm finding a Mr. Right"

Misguided angel hangin' over me
Heart like a Gabriel, pure and white as ivory
Soul like a Lucifer
Black and cold like a piece of lead
Misguided angel, love you 'til I'm dead

He says "Baby, don't listen to what they say
There comes a time when you have to break away"
He says "Baby there are things we all cling to all our life,



に続く一行だけは今夜、どうしても歌えなかった。



愛してました愛してましたなのになぜわたくしでなくなぜわたくしでなくなぜわたくしでなくあんな女を貴方が選んでしまったのか

わたくしたちが奏でる音はあれほどまでに溶け合っていたというのに貴方が左にいてくれたならわたくしはおそれるものなどなにもなかった

貴方は日々ネットワークのシステムの中で指を失いつつあるのだと聞くフレットの上を幻のように滑るあのうつくしい指を

わたくしの白く薄い肌の手触りも知らずわたくしの細く弱い骨の軋みも知らぬまま貴方は

その薬指に指輪を嵌めた



I only want to say
That if there is a way
I want my baby back with me
Cause he's my true love,
My only one don't you see?


2006年09月07日(木)   ずれていくことば

わたくしの腫れ上がる器官は今朝、

鮮烈な血膿を噴き上げ

熱を、失っていった。

何もかもが、このようであるのかもしれない。

◆◆◆

「単義的であることは言語の<終局>である」(デリダ)

「ひとつの意味を持たないということはいかなる意味も持たないということである」(アリストテレス)

言語は解読を待つ傷痕である。

◆◆◆

膝が痛い、

と書いてみて、この痛みを伝えることは不可能だし、そう書くことが何を意図しているのかを正確に読み取れる人などまずいない。

ある人は「慣れない運動しすぎたからじゃないの」と思うだろうし、「太りすぎてて膝が体重支えきれないんじゃないの」と思うかもしれない、そんなことは人となりを知っている人ならありえないことくらいすぐ分かるだろうがそういう解釈だってありうるわけだ。

膝が痛い、

と書くことで、数日前に書いたものを読んでいる人は「足止めを食っているのだな」と連想するだろう。読み手の情報量は解釈の幅を左右する。さらに旅行の計画を知っている人なら「そんな足でいけるの」と思うだろう。さらに事情を知っている人ならもっとほかのことを思い浮かべるかもしれない。だがあえて私は意味を固定せず、

膝が痛い。

とピリオドを打つことでテクストを開放しようと思う。

貴方が、貴女が、たとえば冬の博物館や皇位継承問題やトマス・アクィナスやカイラッシュ山の頂上付近の天国的な光景やgenuine、という単語やアンナ・カレーニナや貨物船や砂の本を思い浮かべても、私はそれに一切関与しないし、できないし、するべきではない。

◆◆◆

批評理論、というものは、このように書き手にとったら単なる「いいかげんな話」「うさんくさい話」なのである。こちとら、伝えようとして、必死なのに。


2006年09月06日(水)   挫く、

挫く、という言葉を前にして感じる妙な既視感、のようなもの。いつか、こんなふうに挫かれることを夢に見たことがあったのか、それともこんなふうに挫かれたことが一度や二度ではないからか。

あまりにも、簡単に、壊れる。たった一言だとか、たった一つのため息だとかで。

だが私は、今から1時間か2時間くらい後にはまた、シグノのブルーブラックのペンを片手にメモを取りながら読むことをはじめる。

強くなった、ものだ。

今日は宣言(?)どおり図書館へ行き、スコールズの『記号論のたのしみ』を拾い読みしながらかなりのメモを取った。そして今更だがハンデルマンの『誰がモーセを殺したか』にものすごい衝撃を受けた。そこにたどり着く以前にフライで理論に絶望し、ブルームが難解すぎて尻尾まいて逃げ出したのだ。教授、とかいう名の役立たずが「異端を解釈のずれという視座から論じたい」と言った私にずばりこの本を示唆してくれていたなら今頃ちょっとは違ったかもしれないのに、なんて言ってみちゃったりして。

文学理論でもなく、宗教学でもなく、文学でもなく。人に「何を学んでるの」と聞かれて上手に答えられた試しなんてなかったけど、確かに今日私はミッシングリングを見つけた。

だからこれしきの軛くらい、軽く飛び越えて、みせよう。


2006年09月05日(火)   抗う

夜が手を伸ばす。月が太っていく。

カレンダーを1枚めくっただけで随分と過ごしやすくなった。

地上の重力から逃れるためプールへ行く。水の中では少し膝が楽だ。

駱駝・・・(変換という自動テクスト生成装置)。

月の砂漠をはるばると。「哀愁」を旋律にするとちょうどあんな感じだろう。

23時のコンビニでチュウハイを買う。

2本だとわびしいので盛大に10本買う。同じ種類を2本ずつ。

アホだろうか。

時々自分が何に対抗しようとしているのか分からなくなる。

今夜もまた前を行く女のヒールの軸が歪んでいた。

それもウェッジソール。ある意味器用だ。

『不可能な交換』を病院の待合室で読み終えた。

『間テクスト性の戦略』のレジュメを切った。

計画を遂行できるとそれだけで気分が良い。

明日は雨らしい。図書館へ行く。

あなたは眠っていますか。

何故だか唐突に高村光太郎の詩が思い出される。

「私の心の静寂は血で買つた宝である

 あなたには解りやうのない血を犠牲にした宝である」

だがそんな静寂も気前よく捨て去ってしまう。

時々自分が何に抵抗しようとしているのか分からなくなる。

ああ多分重力だ。そうだ重力だ。

必然という名の重力。

抗う。


2006年09月04日(月)   裏の裏のそのまた裏の

先週右足首を捻ってからというもの、どうも足元がおぼつかない。鈍い痛みが続いているうえ、理由は不明ながら膝まで痛い。まるで何かに足止めを食っているような・・・

とかなんとかすぐさまそういうふうに裏の裏のそのまた裏のそのまだ裏を読もうとする小賢しさに対抗するため、両膝と右足首にしっかりと湿布を貼ってから、のらりくらりと散歩に出かけた。

それにしても見渡す限りラブホテルと寺と坂である。ちょっと休憩、と思っても喫茶店すらない。だらだら坂をだらだらのぼりつめるといきなり地球儀の形をしたネオンにぶつかる。振り向くと土塀の内側はすべて墓地。隣り合う「小さな死」と厳然たる死。それらをこんもりと包み込む「森」。

坂をのぼり、次の坂をおり、また次の坂をのぼり、次の坂をおりて、次は逢坂、というところで奇しくもまたiPODからNINE INCH NAILSが流れてきたのでくるっと回れ右をした。

今日は「Heresy」ではなく「Starfuckers Inc.」だった。

また裏の裏のそのまた裏のそのまだ裏を読め、ってか!

「人間の生をテクストとして読むこと」と書いたのはロバート・スコールズである。だがしかし人間の生だけでなく、街並みですらこのように、テクストとして読むことができる。

「テクストの外には何も存在しない」、か。

ならば私は自らを言語に解体してしまうべきか。

そこでなら全てが許されていように。

◆◆◆

そして足を癒す。早く、駆け出せるよう。


2006年09月03日(日)   行き着くところは

■けたたましい祭囃子に起こされる。いつの頃からか裏の神社で開催されるようになった、上方落語芸人の祭り。年々商魂ばかりたくましくなっていく裏の神社は数年前から木の手入れをしなくなり、うちのベランダからはお社が見えなくなってしまった。

■鉄砲でも、撃ちに行こうか、と思い立って出かけるも、射的の屋台は出ていなかった。クレー射撃をしたい、と思いはじめて一体何年だろう。金銭でどうにかなるような夢くらいとっととなんとかすれば良いのに。

■ふてくされて図書館へ行くことにした。地下鉄を待っているとき、レールの上を大きなゴキブリが我が物顔で走り回っていた。ヤツらは既に不死身の肉体を手に入れたようだ。頭の中でやみくろをゴキブリに置き換えてみて軽い吐き気を催しながら図書館で本を交換す。

■ジェイムソン『言語の牢獄―構造主義とロシア・フォルマリズム』/ボードリヤール『不可能な交換』/ミルネール『ファンタスマゴリア』。古典退治は一旦休止、観念のアクロバティックな戯れの中から印象的な言葉をつまみ出す。

■書かれた言葉は種子である。そして必然的に書くこととは播種である。受け手の土壌が悪ければ何も育たない。

■だから結局行き着くところはヴォルテール(Il faut cultiver notre jardin)なのである。


2006年09月02日(土)   真剣勝負

熱っぽさを冷ますためにプールへ行く。火曜に捻った足首はまだあまりよくなっていないのでボクササイズとウォーキングはあきらめて、ビート板の上で腕を組み、そこに顎を乗せて、バタバタ。

バタバタ。

さまざまな想いが去来する。

バタバタバタバタ・・・

答えに窮すると唇をぷいっと突き出してみせるあの顔が嫌いだった、決定的な一言がその唇から洩れた瞬間グラスをつかんだ私の手はぶるぶると震えていた、どうしても、どうしても許せない言葉、許してはいけない言葉がこの世には存在する、私はいつだって上手に対処できない、ああそうだあのときもどうして、わがままで身勝手な背中に向かって駆け出したりしたのだろう、あのときも、あのときも、あのときも、私は本当に愚かだった。

水から上がって、ビート板を片付け、ゴーグルをつけた。たいして泳げない私が顔を水につけて泳ごうとするとき、それはいつだって真剣勝負を意味する。

大きく息を吸い込み、水にもぐり、壁を蹴って。

筋肉を緊張させ、重い水をかき分けて、

もがきながら、喘ぎながら、

熱を解き放ち、過去を解き放ち。

そしてじっと前を見据える。水の中の、小さな太陽。


2006年09月01日(金)   苦い一日

■エンピツの登録ジャンルをテキストから文芸へ変更しました。

蒼馬に跨り颯爽と駆け抜ける予定が昨夜突如降りだした雨にしたたか打ちつけられてさんざん濡れたせいでどうやら風邪を引いたらしい。軽い熱、重い身体。蒼馬狂奔す。

以前書いた「泥のように」は誤りで、「砂のように」往くのが良い。泥は優しすぎる。押し付けられたものの形にいちいちへこむなど金輪際ごめんだ。

アウトプット過剰、インプット不足。目減りしていく精神、

の清らかさ?

ざらつく口の中。

苦い一日。


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