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家猫だからと一度も洗ってやったことのない毛皮はそれでもつやつやで、身体は丸みを帯びてあたたかく、抱くと確かな重みと厚みがあって、確かに生きているのだということを教えてくれる。ぽってりした4つの足の先にはぷっくりとふくらんだ肉球。 いつまでも、いつまでも、一緒にいることができないのは分かっているから、一つだけ、約束する。絶対に、何があっても、最後まで、おまえたちの面倒をみる。いろんな諦めを強いて、いろんなエゴを押し付けて、それでもごめんねと謝ることしかできないけど、大好きだから。 (猫ver. 了)
彼らの世界は崇高すぎた。望まず夢見ず抗わず。退屈せず、倦怠せず、前進もせず後退もせず。 そんなに諦めることはまだできない(その諦めを強いているのは?)。 14時間の間に何があったのか。苛立ちが復活、焦りと妬みと嫉みも復活。そして頭頂部にたんこぶ一つ。
ウシとトラは意外に暑がりなので昼間はうれしそうにおなかを上に向けてごろごろしているが、「あっちぃあっちぃわんわんわん」と吠える母という生き物が帰ってきた途端この真夜中に扇風機まで2台とも強で回されてみればさすがに寒いのだろう、押入れに引っ込んで出てこなくなってしまった。 生活様式の根本的な相違を理由に別居を申し立てたことも一度や二度ではないが、なにしろ前科があるのでそうそう容易に家を出してもらえない。いっそのことオージーのアニマルレスキュー隊にでも参加しようかと本気で考える。そんなにアザラシが好きだったら冷房は28℃にしろよ?朝から晩までテレビつけっぱなしにすんのやめろよ?食器乾燥機のつまみ「連続」にあわせっぱなしとかさ?炊飯器の中で白米があっぷあっぷしてんのに弁当買ってきてプラゴミ増やす(そもそもいまだに分別してないし!)のもさ?だいたい冷蔵庫はゴミ箱じゃないんだよ、隙間なくみっちり詰まってんのは魍魎の匣だけで十分なんだよ、嗚呼もうなんて地球に冷たい家なんだろうか、という嘆きが真剣にオージー行きを検討させるのだ、過剰から過剰へ推移しがちな傾向もあるので。 まぁ現実は、ウシとトラを置いて家を出る、なんて考えられないのだけれども。 中国に知的所有権の教育をすることと(それにしてもあの偽造ゴレオはもはや立派なオリジナルの域に達している)せめて夜だけでもエアコン一台止めるとか扇風機を弱にするとかいったもう本当に些細なことがひいては環境保護につながりうるんだというマクロな視点をうちの母に教育することをあきらめたくはないがどちらも私の手に負える問題ではなかった。「できることからはじめよう」などという緩いキャッチコピーではどうしてもはじまらない現実がここにある。
わざわざ感動を求めて出かける、という身振りの耐え難いわざとらしさ、ライブハウスでステージを見上げているヒトの身振りにはどこか卑屈なものがある・・・と思うのは私だけだろうか?盛り上がらなくちゃ、楽しまなくちゃという強迫観念にも似た身振りも含めて十数年前にはじめてコンサートというものに参加したときからつきまとっている違和感なのだけれども?もしかすると私は音楽というものの本質をなんら分かっていないのかもしれないのでそれは個人的な雑感、としてさておき、この3LDKの城の中で虫歯の具合が悪いのか、ひっきりなしに口をくちゃくちゃと鳴らす父親にほとんど殺意に近いものを感じてもまだ、金縛りはとけない。 ここで自らにある病名を冠することが当然のことながら検討されるわけなのだがそれもまたわざわざ安心を求める身振りでありうるのだから一体「わざわざ」というたった4文字の副詞から逃れるにはどうすればいいのだろう? −何よりも滑稽なのはこうして「わざわざ」一連の思考の流れおよび動作を書きつけて(文字通り書きつけて、だ。この長ったらしい文章には本当に手書きの下書きが存在する)いることである、という救い難い矛盾に気づいたところでようやく腰があたたまったのかエンジンがかかって出かけることができた。 したがって今日トラはデートをしていない。許せ。
彼がベッドを買ったその夜、珍しく周期がずれたせいで流れ出た経血がまるでお祝いのように真っ赤な染みをつくったことを思い出した。彼はそれを婚礼の部屋に運んだのだろうか。 そんなことは皆忘れていく。上手に忘れていく。私も忘れていく。それが我々の流儀なのだし。ウシとトラは昨日までの寝心地をもう忘れたのか、今は新しいベッドに一番乗りをして眠っている。それでいい。 新しい夢を、見ようと思う。
こんな静けさを望んでいたのだ、と思う反面で血管の中を黒々とした棘がざわざわ音を立てて駆け巡るから呼吸が苦しい。ひとつの呼吸の間に希望から絶望へ、充足から欲求不満へと揺れに揺れる感情。これで何が静けさだ。 朝の鳥が啼く。 ウシとトラは円環の時間の今どのあたりを生きているのだろう。 「全て動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している。」(ジョルジュ・バタイユ『宗教の理論』) そしてウシとトラはそれを決して自分自身で認識していない。 やはり私と彼らの間には名づけようのない深淵が横たわっている。文字では埋めることの決してできない深淵が。
言語の自己否定。 自らむなしくする、のではなく。 侵略され暴行され剥奪されたものとして。 無力さを噛み締めて横たわる傍らには、完全に充足した柔らかな肢体がふたつ。永遠に祝福されている、神さまの子どもたち。
こんなに勝手気ままに過ごしていて退屈などするはずがあろうか、あるまい。 であるからして我々に「表に出られなくて可哀相」などと下手な同情をよこすのは勘違いも甚だしいのである。 などと強気なことを書き付けてみるのは若干退屈している証拠である。若干ね。
暑い。 さすがのウシとトラも離れて寝ている。ガラスのテーブルにべちゃりとおなかをくっつけて寝ている様を下から眺めるのが非常に面白い。これを俗に「下からウシ」「下からトラ」という。 私もガラスのテーブルに寝そべることができればどんなに気持ち良いだろう。この柔毛はあまりに暑過ぎる。 やはり私には無理なのかもしれない。非常に悲しいことだけれど。
ウシとトラも、こんなふうに、小さくて柔らかな身体の内側に、凶暴な力の奔流を感じることがあるのだろうか。真夜中、ときおり狂ったように走り出す彼らを支配しているのは、この細胞レベルでの苛立ちなのか。 せっかくの柔毛がごっそりと抜け落ちた。 私の柔らかな殻はあまり長持ちしそうにない。 じっとりと汗ばみながら、不快感を消すためにサーモンピンクの錠剤を2錠飲み下した。 外へ、外へ迸ることを求める血の騒ぎ。
ヒトから構われるのが、鬱陶しくて鬱陶しくてたまらないのだ。 名前を呼ばれることも、身体に触れられることも、様子をうかがわれることもまっぴらごめん、何もしてくれなくていいから、放っておいてほしい。 そんなふうに、思うように、なった。 無駄な言葉を積み重ねて 無駄な期待をつのらせて まったく、ヒトは、五月蠅すぎる、無様に五月蠅すぎるのだ。 我々は、馬鹿馬鹿しいや、と背をくるりと丸める。
空を飛ぶことも、壁を伝うことも、地に潜ることも許されてはいないけれど、このしなやかな体躯で、この鋭い爪で、何を託つことがあろうか。
逆に我々は問いたいのである。どうしてそんなにいつも忙しそうなの、どうしてそんなにあれもこれも欲しがるの、どうしてそんなに今日と同じ明日がいやなの、もう、充分なんじゃあないの? と欠伸のひとつも交えながら是非とも問うてみたいのである。 とにかく我々はエコロジカルな生き物でもあるのだ。流行の「スローライフ」は我々の生活様式を模倣したものに過ぎない。
それに比べて私はまだまだだな。 びくびくと明日をうかがってみたりして。 所詮 くだらないよ。 くだらない。 どーだっていいじゃない? どー思われたっていいじゃない? どーでもいいと思ってんだから。 ・・・思ってんの? ほんとに? ・・・多分ね。 自信ないけど。
そんなに急いで歩くから 大きな声でがなりたててばかりいるから 昼間っから酒飲んで、毎晩毎晩酔っ払って まったく そんなだから高血圧なんかになるんだよ 少しは我々を見習いなさい 掃除だって洗濯だって料理だって ヘタクソなんだから ごろーっと どたーっと 寝てたって 誰も貴女を叱らないよ
議題その1:「何故ミケは今日こなかったのか」 ミケは飽きたのではないか、という発言がウシから出たとたんにトラは背中の毛を逆立ててウシにかぶりついていった。そしてウシとトラは取っ組み合いのケンカになだれ込んでいったのであるが、私が「今日はオオタグロさんちの玄関が開いていなかった」と述べたことにより収束。論点はミケの飼い主であるところのオオタグロさんご夫妻がこの「交際」について反対なのか賛成なのか、という一点に絞られたがとりあえずもうしばらく様子を見てみることになった。 議題その2:「蹴球について」 なにゆえヒトはたかがボールひとつを枠の中に放り込むというゲームにあそこまで熱くなるのかわからぬ、枠の中にボールを入れたらネズミでも出てくるのか、というトラの疑問に対しウシがそれはあまりに即物的な思考である、と反論。「我々はネズミのみにて生きるにあらず」はこの後、ウシの名言として後世に伝えられるであろう。議論が白熱し、時を追うごとに議題から逸れていったことは返す返す残念である。 議題その3:「生産的労働と不生産的労働の問題について」 そんなこといったって我々はだれひとりとして「労働」に従事していないのだから分かるわけないじゃないか? というトラの一声で議論は打ち切られた。 議題その4:「食育月間について」 毎年6月は食育月間だそうだけど? と議題をふったのは食いしん坊のウシであった。みんなで毎日あさごはん、っていうけどさ、朝ごはんってのはなんだい、朝7時ごろに食べるごはんのことかい、それとも起きて直近のごはんのことかい? と私が問うたその瞬間、カナリア軍団の華麗なゴールが決まったので今夜の秘密会議はなんとも尻切れトンボな形で幕を閉じたのだった。 多分これからも深夜の秘密会議は続く。
あかんよ、男は、積極的にならな。 とトラをけしかける私の脳裏にある一つ、いや、二つ、三つ、の面影が浮かんでは消えていった。 「はやくしないと他の男んとこいっちゃうわよ。」
その滅私奉公を自らの信条としているようなトラが、恋を、した。 蒸し暑い季節がやってきて、この集合住宅では夜、風通しをよくするために多くの家庭が玄関のドアを開け放っている。大都会の中心部にはいまだ下町風情を残したつながりがひっそり残っているのであって、ここなどはその典型である。住民はたいていが商売人であるので、遠慮も何もあったものではなく、ムームーを着たおばちゃんたちが暑いなー、いやー、ほんま暑いでー、などといいながら胸元をぱたぱたさせて廊下を闊歩していたりするのも珍しい光景ではない。 そしてある晩、廊下から、みゃう、みゃう、という小さな声が聞こえてきたのであった。ふとドアを開けると、そこには、きれいな毛並みをしててっぷりと太ったミケがちょこんと座っていたのである。 それからというもの、毎晩10時を過ぎるとドアの向こうからみゃう、みゃうという声が聞こえてくるようになった。ドアを開けてやると、トラはいそいそとやってきて、びくびくしながらミケとじぃっと見つめあう。はじめのうちは、ミケに威嚇されて身体中の毛を逆立てて駆け戻ってきたが、なんと今夜、トラはミケを我が家に招待することに成功したのである。 ミケはおそるおそる、お邪魔します、とでも言いたげな顔をして、やってきた。 だが今日は日曜日であった。「おー、この子がトラの彼女かー」と大きな声を張り上げる母、という存在を、止めることはできなかった。ミケは腰を抜かして自分の家に帰っていってしまった。 いつの世も、ヒトの世も、我々の世も、母は恋愛の障壁となりうる(この場合の「母」が集合的な意味合いのものであるのか、それともある個体を指し示すものであるのか、それは読者の方々の解釈にお任せしたいと思う)。
テレビの画面には芝生の上で玉ころがしに興ずる男たちの映像が間断なく映し出されている。転がるものを追いたくなるのはヒトも我々も同じみたいだ。おそらく我々の方が瞬発力や足さばきには長けていると思うのだがチームプレイが苦手なのでフォーメーションだのセットプレイだのいわれてもまず無理であろう。快い、映像である。太陽の下で、走り、汗を流す、ヒト。 我々はその映像を、電気を消した暗い部屋で、片手にビールなどを握りしめながら、ときおり「おぉ」だの「うぅ」だのと唸ってみたり「ぎゃあ」だの「ひぃぃ」だのと叫んでみたりしながら、背を丸めて眺めるのである。 極楽、極楽。
ウシ模様やトラ模様の同輩の寝言は非常にかわいらしい。にゃぁ・・・なのか、くぅぅ・・・なのか、とにかく小さな小さな声で、まるでお母さんの夢でもみているような切ない声で鳴く。 だが私の場合はまだ完全になりきれていないせいもあるのか、今朝方はついヒトの言葉で、それもかなり大きな声ではっきりとした寝言をいってしまったようで、父のにやにやした顔から推測するに何かとてつもなく恥ずかしいことを口走ったに違いないのだ。昨日「私は何も、夢見ない」と書いたばかりなのに実際はウェーブのかかったブロンドの長い髪ととび色の目が印象的なあの「大佐」と呼ばれる男の夢を見たのだから。 ああ ヒトの言葉というのは疎ましいものだ。
雨の音を聞きながら 3匹で丸くなって トラはお向かいの三毛猫の夢を ウシはハンサムな獣医師の悪夢を 私は何も、夢見ない。
あれは4月の28日のことであった。地下鉄の構内で携帯電話が鳴ったのである。はっきり覚えていないのだがたしか六丁目のあたりで「どうせ出るわけがないから」、こちらからかけた・・・ん? しかしなぜ六丁目などという中途半端な場所なのだろう・・・ とにかく、六丁目のあたりでかけた電話に向こうが珍しくすぐに反応を示して1分も経たぬうちに折り返しの電話をかけてきたのだ、それで私は改札を出て・・・ん? なんで出たんだろう・・・ とにかく、改札を出て、歩きながら久方ぶりの会話をはじめた、のだ、そうだそうだ、あれは奇妙な夜だった、どこをどう歩いたのか、六丁目から九丁目までをふらふらと歩く間中、その会話は続いた。 そのときにおそろしく自己憐憫/陶酔的科白が聞かれたのである。救いようのない勘違いと思い上がりに直面して一瞬呼吸が止まるくらい脱力したのも覚えている。「傷つける」、「傷つけた」、そうだそうだ、確かにそういった、そして私は イまさらナにイってんの〜????? と素っ頓狂な声をあげたのであった。 とここまで書いてはみたが「すぐに忘れる」の流儀がそろそろ幅をきかせつつあるのでここから先のことは忘れてしまった。どういう経路でそれがこんな形をとって凝固したのかは定かではないが、なにせそれは憎悪としか名づけようのない醜悪な形態でもって私の内側にべったりと根を張り、ヒトとしての機能を停止させるに至ったのだ。 であるからしてええっと、すぐに忘れるので冒頭部分で何を書こうとしていたのか、もう忘れました。
たった一言が足りないかと思えばたった一言が余計だったり。有効期限のきれた言葉をふりかざしたり、ゴミ箱に入れるしかない言葉を送りつけてきたり。 足りない言葉を補填して 過剰な言葉を排除して そして私は疲れてしまいました、だからただ にゃお とだけ鳴きましょう 貴方など滅んでしまえばいい、という 物騒な言葉の代わりに。
これほどまでに醜悪な事件が続くとこうしてケモノミチに踏み込んだ自分の選択が正しかったのだと思わざるを得ない。大仰な言い方だが飽きたのだ、《あたしたちはだれもかれもみんな、ただお互いに憎しみ合い、苦しめ合うためだけに、この世に放りだされたんじゃないのかしら》、そんな140年も前に吐き出された女の嘆きがおそろしいほどの真実味をもって迫ってくるようなヒトノミチに飽きたのだ、列車に飛び込むだけの情熱や激情もすっかり干上がってしまったことだし、あとはもう決して何事にも積極的にアンガジェせず、アニーのようにして行くことを、ただゆっくり静かに存在することを願うばかりなのだ。《食べること。眠ること。眠ること。食べること》。 そして私はやっぱりトルストイよりもサルトルの方が好きなのだ。そればっかりはいたしかたない。
4日目をむかえて私の円も穏やかにその環を閉じようとしている。退屈だと思ったことはまだ、一度もない。
それにしてもウシ模様の同輩の担当医はハンサムである。ハンサムという言葉の有効性については先月までなら気をもんだであろうが「何も気にしない」のが流儀である以上どうでもいい。先月駆けつけたときはこちらに余裕がまったくなかったので気づきもしなかったが具合が落ち着いてきて世間話のひとつやふたつも交わすようになってからはまぁなんときれいな顔であろうかとみとれてしまうこともしばしである。そして手が美しい。ギタリストの手にはかなわないであろうが。 しかし私はもうヒトとしての外殻を失ってしまっているのでそれもやはりどうでもいいことだ。診察台の上で美しい手に身体を押さえつけられているウシ模様の同輩が少し羨ましかったがあとで聞いたところによると肉球に汗をかいてしまうくらい怖いらしい。 そんな怖い思いをしても家に帰った瞬間ケロリとした顔でエサをねだってみせるのだから「すぐに忘れる」というのも彼らの重要な流儀のひとつである。どうでもいいし、すぐに忘れる。なんて素晴らしい生き方なのだろう。
我が家のベランダではもう軽く10年ものと思われるペチュニアが大繁殖している。だいたい群れて咲く花があまり好きではないし色もなんだか毒々しいので避けて通っていたのだが、30センチの視線でよく見れば何かのおまじないのように枯れて乾いた枝が土に刺さっているだけの鉢がある。女主人は近頃目が弱くなったのにメガネを頑なに拒むのでこのまま放っておけばいつまでも気づかれない可能性のほうが高い。なに、こんな枯れ枝くらい、ちょっと掘って引っ張れば抜けるだろう、と小さな頭で考えたのがそもそもの間違いであった。 土は固く、根は深く。掘ればミミズがのたうちまわり。 ぎゃあと叫んで腰を抜かせば傍らで同輩たちが丸くなったり伸びたりして眠っていた。どうやら何も気にしないのが彼らの流儀であるらしい。枯れ枝を抜き取り、土をならして、「The Beekeeper Mix」をようやっと蒔き、いったい何が芽吹いてくるのかしら、この種死んでなければいいけど、などと考えたりするのはまだまだ半人前の証拠である。
空腹を感じて、とにかく起きてみることにした。肉球をフローリングにつけると、ぺちゃ、っという奇妙な感触がした。濡れた足で床を踏んでいるような気分だ。四つんばいというのも気恥ずかしい。これまで薄いレースだの刺繍だのでさんざん隠してきたところも丸見えじゃないか、と後ろを振り返るとそこには立派な黒い尻尾が生えていた。視界がいつもより1メートル30センチほど低くなっていて、あちらこちらに積まれた本だのCDだのがいやに大きく見える。机の下など埃だらけで今にもくしゃみが出そうだ。 まあ、とにかく、そういうことなのだな、とぶるっと身を震わせて、伸びをしながら欠伸をしたら、にゃあ、という間抜けな音が喉から洩れていった。 今のところ、まったく、悪くない。 |